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第二章 ニコタマ文芸部

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 楓子は大きなため息を吐くと肩をグルグルと回した。同じ姿勢だったので疲れたのだろう。
「お疲れ様」
「あ、ありがとう。栞もお疲れ」
 彼女は深呼吸すると苦笑いを浮かべた。楓子の目は充血し、肌も少し荒れている。
「あんまり無理しないほうがいいよ……。私も人のことは言えないけどさ……」
「うん。次の公募終わったらちょっと休むよ。せめて二次選考ぐらいは通りたくてさ。ま、難しいんだけどね」
「気持ちは分かるよ……。私も公募締め切り前はね……」
 本当に気持ちは理解できる。私だって締め切り前はいつもバタバタするのだ。でも……。だからこそ、楓子には無理して欲しくなかった。ボロボロになって書き上げて評価される……。ならいいけれど現実はそれほど甘くはないのだ。そうやって創作活動を断念した人間はごまんと居る。
「ありがとう栞。まぁほどほどにするよ」
「うん」
 変な話。この喫茶店に居る全員がそのことは理解しているのだ。母は特に理解しているだろう。彼女は私たちが想像もできないくらいの死線をくぐり抜けているはずなのだ。そうでなければ出版業界で生き残れるはずがない。
「息抜きは大事よ」
 私たちがぐったりしていると母がケーキを持ってきてくれた。ブルーベリーの乗ったレアチーズケーキだ。
「ありがとうございます」
「うふふ、いいの。楓子ちゃんは頑張り屋さんねぇ。私も昔はそうだったわ」
 過去形。今はどうなのだろう?
「今頑張らないといけないんです。そうしないと……。一生漫画家なんかなれないと思うから」
「そうね。たしかに若いウチにデビューしておいた方が得なことは多いわ。ほら、高校生でデビューとかマスコミも欲しいネタだからね。でも……。生き残ることと若さは関係ないわよ? 私もこの業界長いけど、同世代の子たちはほとんど残ってないから……」
 母の言葉には厳しさと悲しさが含まれいるように聞こえた。脱落者たちへの哀れみも含まれているのだろうと思う。
「ええ……。そうですね。私の周りにも描くの諦めた子たちたくさんいますから」
「そうよねー。そうやって篩に掛けられていくの。なかなかハードな世界よね。最初は何万人も居たはずなのに気がつくと残ってるのはほんの一握り……」
 母は篩に掛けられて残ってきたのだ。残るべくして。彼女の言葉にはそんな重さが含まれている。自分の母親ながら尊敬する。いや……。血を分けた親だからこそ尊敬するのかもしれない。
「私は最後まで残るつもりです。どんな犠牲を払ってでも」
「楓子ちゃんは強いわね。フフフ……。まぁ、頑張りなさい。でも才能だけではどうにもならない壁があることは忘れないでね。そうね……。やっぱり最後に物を言うのは『運』と『縁』だから」
「はい……」
 運と縁。母の好きな言葉だ。母曰く、文芸の世界で生き残ってこれたのは運と縁のお陰らしい。才能はついでみたいな物。それが母の言い分だった。
「すいません。長い時間お邪魔して」
「いいのよ。また来てね」
 ふと時計に目をやる。針は午後九時を指そうとしてた……。
 そのときだ。喫茶店のドアが開いた。
「ごめんなさい。もう閉店なんです」
 母は申し訳なさそうに来客に告げる。
「お母さんちょっと待って」
 私は母を遮った。
「すいません。遅い時間に……。栞さんに用事があって」
 予期せぬ来客だ。彼は長い前髪を掻き上げると私の方を向いた。
「どうしたの? こんな時間に?」
「いや……。ちょっと川村さんにお願いしたいことがあってさ」
 彼はそう言うとバッグから一枚の紙を取り出した。
「え? これって……」
 私はその紙を受け取る。そこには『入部希望 中原大地』と書かれていた――。
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