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第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風

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 一〇月になった。文芸部は未だに公式の部活動にはなっていない。気がつけばドストエフスキーの本も二作目に突入している。罪と罰。これも彼の代表作だ。
「川村さん読むの速いよね」
「慣れてるからねー。まぁ、翻訳さんが綺麗に翻訳してくれてるから余計ね」
 水貴はすっかり海外文学に飽きたのか、日本の古典作品を読み始めていた。彼の手には太宰治の斜陽が握られている。
「それにしても……。ぜんぜん入部希望来ないね。すっかり読書同好会だよ」
「ハハハ、本当だね。まぁ気長に待つよ。執筆は家でもできるしね。水貴くんはなんか書いてるの?」
「うーん……。書いてないかな。ほら、僕って話書くより正しい文章書く方が得意だからさ……。なかなか上手く小説書けないんだよね」
 水貴はそう言うと小さく首を振った。おそらく彼にとっての文学は情緒だとか表現ではなく作業に近いのだと思う。作業……。言い方を変えれば編集者向きなのだろう。
 私たちはそうやって毎日、文芸部室(仮)で放課後過ごしていた。特に会話らしい会話もない。部員が集まらないとか、授業であれが難しかったとかその程度の話はしたけれど、ただそれだけだ。
「分かってたんだけどさ。やっぱり異邦人は難しいね。やっぱりカフカのほうが読みやすい気がするよ」
「わかる! カミュの本って難しいよね。何回か読んだけど実験的すぎて読むのが大変だったよ」
 カミュの異邦人。その本は母の書斎に置いてあった。不条理文学の最高傑作のひとつだけれど、正直私には難しすぎると思う。母はカミュの本を好んで読んでいたけれど、私はロシア文学の方が肌に合っている気がする。
 特に読んだのはドストエフスキーとトルストイ。トルストイは小学校から読んでいるのでかなり読み込んでいるし、アンナ・カレーニナは何回読んだか分からないほどだ。
「さすがに太陽が眩しいから人を殺すなんて異常だよね」
「本当にねー。ま、不条理文学ってそんなもんだと思うよ?」
 実に文芸部らしい会話だ。まぁ、カミュやカフカは小学生でも読んでいる子がいるので内容的にはかなりメジャーだとは思うけれど……。

 私たちが読書会をしていると部室のドアが開いた。
「こんにちは……」
「あ! いらっしゃい。来てくれたんだね」
 ドアの向こうには楓子が立っていた。彼女はスクールバッグと大きなリュックを背負っている。
「珍しいな……。楓子から来るなんて」
「来ちゃ悪かった?」
「いやいや、そんなことはないけどさ」
 水貴は得体の知れない生き物を見るような目をしている。小学校からの友達なのにどうかと思うけれど。
「川村さんひさしぶり。部員集まった?」
「ううん。ぜんぜん……。やっぱり部員集めって大変だね」
「そっか……」
 楓子は少し残念そうにうなずく。
「ねえ楓子? 名前だけでもいいから文芸部入ってくれない? そうしたら部活昇格なんだ」
「前に川村さんにも言ったけどそんな暇はないよ。学祭のときなんかやるんでしょ?」
「学祭か……。まぁ、それはまだ未定だけどさ。でも楓子に面倒なんかやって貰おうとか思わないからさ」
 水貴の勧誘に楓子は「ふーん」と興味なさげな返事をした。
「私も楓子さんに入って貰いたいかな……。水貴くんの言うとおり、面倒ごとはやらなくていいから!」
「……。分かったよ。じゃあ名前だけ貸すよ」
「ほんと!? ありがとう!」
 私は彼女の手を掴んで何度も頭を下げた。楓子は恥ずかしそうに「いいよ別に」と顔を赤くする。
「よしよし。さすが川村さんだね。まさか楓子が折れるとは思わなかったよ」
「面倒ごとないならいいよ……。あとここの方が机広そうだしね」
 楓子は照れ笑いを浮かべながら頬を掻いた――。

 それから楓子は文芸部の部室のドアに貼るポスターを一枚描いてくれた。心なしかこの前より明るく楽しげなイラスト。
「そういえば部長はどっち?」
 ふいに楓子が私たちの顔を見比べながらそう言った。
「え? ああ、そういえば決めてなかったね……。水貴くんで良いと思うよ」
「いやいや……。僕じゃ部長っぽくないよ。やっぱりちゃんと文芸できる人じゃないと」
「……。ということは私?」
 選択肢の少ない消去法だ。楓子も「うん。川村さんが適任だと思う」と水貴に同意した。
「じゃあ、川村さん部長ね」
 楓子は満足げにうなずく。
 こうしてたった三人の文芸部がスタートした。まぁ、中学校はずっとこの三人で活動して終わるわけだけれど――。                    
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