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プロローグ

愚か者のブックマーク

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 氷の音がカランとなった。祖母が煎れてくれたアイスレモンティーの褐色が眩しく光っている。祖母の喫茶店は今日ものどかだ。客はいない。店内にいるのは私と祖母だけだ。
「栞ちゃんお勉強?」
 祖母は私の隣に座ると原稿用紙を覗き込んだ。
「違うよ。新しい話書き始めたんだ」
「ハハハ。やっぱり蛙の子は蛙ね。お母さんもテーブルで同じことしてるわ」
 祖母は嬉しそうに笑うと私の頭を優しく撫でてくれた。
「うん。お母さんの邪魔しちゃいけないからね。ごめんね。お客さん来たらどくから」
「いいのよ。今日は混まないと思うし、店の方が捗るわよね」
 祖母の言うとおり店で作業すると捗るのだ。きっと店内に流れるBGMと独特の匂いのおかげだと思う。
 コーヒーを焙煎した香りと店内の木材の匂いが混ざり合う。香しい森の匂い。私は空間を満たすこの香りが好きだった。特に木の瑞々しい香りは私をとても落ち着かせてくれる。
 こんな素敵な場所で執筆できる私はとても運が良い。両親も祖母も私を可愛がってくれるし、何より私の価値観を受け入れてくれた。
 価値観……。綺麗な言葉で言ったけれど、それは私の性癖のことだ。幼い頃は感じなかったけれど小学校の高学年になるとそれは私を苦しめることになった。
 小さい頃から私は空想好きでグリム童話や日本のおとぎ話を毎日のように読んで過ごした。ネズミの親子が買い物に行ったり、森の妖精が飛び回る世界が私の日常でそれ以外のことには興味が持てなかった。
 幼い頃はそれでも良かったと思う。低学年の頃にはその世界観が評価されたこともある。学校の写生会で風景画を描いても私は勝手に妖精を描き込んだ。作文コンクールではファンタジーな作品を提出した。担任の先生は「この子は文才がある」と母にも言っていたらしいし、おそらくは理解のある先生だったのだろう。今思えば大人たちは「まぁ子供なんだから」と軽い気持ちで私を評価したのだろうけれど……。
 
『風変わりだけれど悪い子じゃないよね』
 
 そんな評価だ。正直に言おう。私は褒められて図に乗っていたのだ。自分には才能があるし、その才能はまだまだ伸びる。そんな風に思っていた。
 別に誰かに対して高圧的な態度をとったわけではない。しかし私は他の子たちをある意味では蔑んでいた。夢や目標に向かって行動できない子は可愛そう。そんな風に思っていた。完全にそれは間違いだったのだけれど……。
 気づいたときにはもう手遅れだった。世田谷の小学校でも私は孤立してしまったし、小学五年生のときに転校した京都府内の小学校では完全に空気だった。いや……。空気より酷かったかもしれない。これは私の偏見だけれど、京都の女子は本当に怖いと思った。彼女たちは言葉でこそお淑やかな言い方をしたけれど、腹の中では完全に私を蔑んでいた。
 図工で作った木工細工も誰かに壊された。教科書も幾度となく隠された。話しかけても無視されるなんて日常茶飯事だったし、控えめに言って最悪ないじめだったと思う。
 だから私は余計に自分の世界に引きこもるようになった。授業を真剣に聞き、休み時間には物語の世界に逃げ込んだ。逃げても何も解決しない。それは分かっていたけれど、それ以外に何もできなかった。
 京都での日常は本当に苦痛だった。彼らの話す独特な関西弁が酷く耳障りで、聞いているだけで気分が悪くなった。
 なんで私はこんなにダメなのだろう。そんな風に自己嫌悪する日が続いたけれど、自分ではどうすることもできなかった。不登校にならなかったことが不思議なくらい精神的には参っていたと思う。
 でも……。苦痛を受けた反面、私は大切なものにも出会えた。大切な。そして掛け替えのないものを私は手に入れることができた。結果的にはその大切なものには唾を吐いてしまったわけだけれど――。
 店内で原稿用紙と向かい合っているとあの子の顔が思い浮かんだ。短くて太い髪、黒目がちな大きな瞳、浴衣を着るとはっきりと見える身体のライン……。その姿が目の前にいるようにはっきりと浮かぶ。
 あの子にはもう二度と会えないのかもしれない。そう思うとたまらなく切なくなった。あれほど毎日顔を合わせていたのに彼女はもう私の日常にはいないのだ。鴨川の流れとあの子の横顔。そんなありふれた景色が酷く遠く思える。永遠に思えるほどに。
 三八万キロメートル……。その数字が頭に浮かんだ。地球から月までの距離だ。東京・京都間の距離なんて五〇〇キロにも満たないはずなのに彼女との距離はそれくらい遠く感じる。
 次に私はかぐや姫が月に帰る姿を想像した。月へ向かう天女と従者の集団。そして牛車に乗る彼女の姿。私のそんな性癖的な空想が浮かんでは消えていった。
 中学二年の夏休みはそんな空虚な感情と愚かな空想癖に支配されて幕を開けた。アイスレモンティーの氷がまた一つカランと音を立てた――。
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