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第三章 秋川千鶴の場合
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新宿に雨が降りしきっている。冷たい雨だ。アスファルトもビル群も全てが黒々しくて闇に溶けてしまいそうな。
そんな中、ネオンの光だけがキラキラと乱反射していた。陥没したアスファルトの水たまりにパチンコ屋の看板の光が差し込む。ガラスの水滴に極彩色の風俗店の看板が写り込む。それはまるで新宿本来の姿を詰めこんだビードロのようだ。油絵の具のパレットを思わせるような荒々しい光――。
退勤後。私は会社近くのスターバックスでその濁った光を眺めていた。しばらく雨は止みそうにない。
スターバックスの店内ではジャズが流れていた。あまりジャズに詳しくはないけれど知っている曲だ。聴いたことはあるけれど曲名は知らない。その程度の曲。
窓越しに新宿の街を眺める。相変わらず雨は降りしきり、通行人の手には傘が握られていた。こんなゴミゴミした街でみんなが傘を差している。それだけでため息が零れそうだ。
スターバックスの店員はテキパキと飲み物のオーダーを受けていた。長ったらしい名前のナントカフラペチーノやら銘柄指定のプレスコーヒーやら。そんな魔法の呪文のような注文をツラツラと復唱していた。彼らも十二分にプロなのだ。それこそ私が下着の留め金一つに注意を払うように……。プロフェッショナルなのだと思う。
ああ、残念だ。私には下着メーカーのデザイナーの才能があるのだ。これは自慢というより自負に近いと思う。
狭い業界とはいえ私の名前はそれなりに通っているはずだ。ウーマンリブの秋川。その名前を出せば同業者ならすぐに硬い表情を崩してくれた。それぐらいには有名人だったのだ。これは良い意味でそう思う。
笹原常務の顔に泥を塗るのか……。と考える。ここで辞めればある程度の影響は出ると思う。少なくとも取引先の何社かは取引を辞めたがるだろうし、もしかしたら引き抜きの声も掛かるかも知れない。
我ながら思う。私は本当にこの業界にどっぷりだったのだと。ここまで浸からなければよかったとも……。
ラッコ一匹に私の心を乱されたのか。そう思うと無性に腹が立った。別に野生動物としての彼らを非難するつもりはないけれど、あのラッコだけはどうしても気に入らなかった。……いや、違う。ラッコが気に入らないんじゃない。きっとあのラッコは私の中の気に入らない部分を洗い出しただけだ――。
すっかり冷めてしまったドリップコーヒーを一口啜る。酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
しばらくスターバックスで呆けていると多くの客たちが店から出て行った。雨は相変わらず降っているけれど、皆雨宿りを諦めたようだ。それぐらい強い雨なのだ。風がないだけにその雨の重さが余計のし掛かる。
雨の新宿。それは私にとってあまりも冷たい場所だった。雨は新宿を金属的な。無機物的な温度しかない街にする。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲む干す。マグカップの底にはコーヒーの跡が細い三日月のようにうっすらと残っていた。雨空の上にあるであろう消えてしまいそうな三日月のような。そんな跡だ――。
それから私はスターバックスで持ち帰り用のコーヒーを買うと駅に向かった。右手には傘、左手にはコーヒー。肩にはバッグ。これじゃあ襲われても対処できそうにないな。そんなことを思った。まぁ、こんな年増女を襲う物好きなんていないとは思うけれど。
大粒の雨が休むことなく傘を叩いた。防ぎきれない水しぶきが顔に当たった。もういっそのこと傘など手放した方が良いのではないか? そう思わせるぐらいには本降りだ。左手に伝わるコーヒーの温度と右手に握る傘の柄の温度差が身体に堪える。
それでも私は歩を進めた。新宿駅に行く。そして山手線に乗って帰る。そんな習慣的な感覚だけが私を歩かせている気がする。
新宿駅に着くとやはりそこはあの嫌な匂いで満ちていた。吐き気がする。早く通り過ぎたい。そして電車でさっさと自宅の最寄り駅に着きたい。そして家に着いたら熱いシャワーを浴びたい。そんな生理的欲求を詰め込んだ思考だけが頭に浮かんだ。
ああ嫌だ。どこで間違ってしまったのだろう。私は再びその思考の迷路に迷い込んだ。両親との確執。就職してからの十数年。目の敵にしていた水原雪乃……。忘れようにも忘れられない記憶が波のように寄せては返していく。それは今こうして降りしきる雨のように私の心に重くのし掛かった。残念なくらい重く。そして責めるように。
考えてみればヒロの言っていたことは当たっていたな。今更そのことに気づいた。ただ……。私が受け入れられなかっただけ。今はそう思う。水原雪乃の件はあくまできっかけに過ぎないのだ。問題があったのは私自身。他の誰でもないのだと思う。
きっと私はそう気づくさだめだったのだ。どうしても逃れることのできない。そんな宿命じみた何かに支配されていた――。
山手線のホームに着くと私はベンチに腰掛けた。そしてすっかりぬるくなってしまったコーヒーを口に含んだ。
さて――。これから私はどこに向かおうか? ふと、そんなことを思った。
もうあの会社には戻りたくないし、いっそのこと行く当てもなく旅に出ようか?
――そうだ。旅が良い。当てなどなくていい。自由にどこかに向かおう。そして美味しいものをたくさん食べて綺麗な景色をいっぱい見よう。それだけを目的にしよう……。
空を見上げると雲間から星が顔を覗かせていた。どうやら雨は上がったらしい。
私は目を細めて雲の切れ間を注意深く覗いた。夜空には今にも折れてしまいそうな三日月が浮かんでいた。 終
そんな中、ネオンの光だけがキラキラと乱反射していた。陥没したアスファルトの水たまりにパチンコ屋の看板の光が差し込む。ガラスの水滴に極彩色の風俗店の看板が写り込む。それはまるで新宿本来の姿を詰めこんだビードロのようだ。油絵の具のパレットを思わせるような荒々しい光――。
退勤後。私は会社近くのスターバックスでその濁った光を眺めていた。しばらく雨は止みそうにない。
スターバックスの店内ではジャズが流れていた。あまりジャズに詳しくはないけれど知っている曲だ。聴いたことはあるけれど曲名は知らない。その程度の曲。
窓越しに新宿の街を眺める。相変わらず雨は降りしきり、通行人の手には傘が握られていた。こんなゴミゴミした街でみんなが傘を差している。それだけでため息が零れそうだ。
スターバックスの店員はテキパキと飲み物のオーダーを受けていた。長ったらしい名前のナントカフラペチーノやら銘柄指定のプレスコーヒーやら。そんな魔法の呪文のような注文をツラツラと復唱していた。彼らも十二分にプロなのだ。それこそ私が下着の留め金一つに注意を払うように……。プロフェッショナルなのだと思う。
ああ、残念だ。私には下着メーカーのデザイナーの才能があるのだ。これは自慢というより自負に近いと思う。
狭い業界とはいえ私の名前はそれなりに通っているはずだ。ウーマンリブの秋川。その名前を出せば同業者ならすぐに硬い表情を崩してくれた。それぐらいには有名人だったのだ。これは良い意味でそう思う。
笹原常務の顔に泥を塗るのか……。と考える。ここで辞めればある程度の影響は出ると思う。少なくとも取引先の何社かは取引を辞めたがるだろうし、もしかしたら引き抜きの声も掛かるかも知れない。
我ながら思う。私は本当にこの業界にどっぷりだったのだと。ここまで浸からなければよかったとも……。
ラッコ一匹に私の心を乱されたのか。そう思うと無性に腹が立った。別に野生動物としての彼らを非難するつもりはないけれど、あのラッコだけはどうしても気に入らなかった。……いや、違う。ラッコが気に入らないんじゃない。きっとあのラッコは私の中の気に入らない部分を洗い出しただけだ――。
すっかり冷めてしまったドリップコーヒーを一口啜る。酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
しばらくスターバックスで呆けていると多くの客たちが店から出て行った。雨は相変わらず降っているけれど、皆雨宿りを諦めたようだ。それぐらい強い雨なのだ。風がないだけにその雨の重さが余計のし掛かる。
雨の新宿。それは私にとってあまりも冷たい場所だった。雨は新宿を金属的な。無機物的な温度しかない街にする。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲む干す。マグカップの底にはコーヒーの跡が細い三日月のようにうっすらと残っていた。雨空の上にあるであろう消えてしまいそうな三日月のような。そんな跡だ――。
それから私はスターバックスで持ち帰り用のコーヒーを買うと駅に向かった。右手には傘、左手にはコーヒー。肩にはバッグ。これじゃあ襲われても対処できそうにないな。そんなことを思った。まぁ、こんな年増女を襲う物好きなんていないとは思うけれど。
大粒の雨が休むことなく傘を叩いた。防ぎきれない水しぶきが顔に当たった。もういっそのこと傘など手放した方が良いのではないか? そう思わせるぐらいには本降りだ。左手に伝わるコーヒーの温度と右手に握る傘の柄の温度差が身体に堪える。
それでも私は歩を進めた。新宿駅に行く。そして山手線に乗って帰る。そんな習慣的な感覚だけが私を歩かせている気がする。
新宿駅に着くとやはりそこはあの嫌な匂いで満ちていた。吐き気がする。早く通り過ぎたい。そして電車でさっさと自宅の最寄り駅に着きたい。そして家に着いたら熱いシャワーを浴びたい。そんな生理的欲求を詰め込んだ思考だけが頭に浮かんだ。
ああ嫌だ。どこで間違ってしまったのだろう。私は再びその思考の迷路に迷い込んだ。両親との確執。就職してからの十数年。目の敵にしていた水原雪乃……。忘れようにも忘れられない記憶が波のように寄せては返していく。それは今こうして降りしきる雨のように私の心に重くのし掛かった。残念なくらい重く。そして責めるように。
考えてみればヒロの言っていたことは当たっていたな。今更そのことに気づいた。ただ……。私が受け入れられなかっただけ。今はそう思う。水原雪乃の件はあくまできっかけに過ぎないのだ。問題があったのは私自身。他の誰でもないのだと思う。
きっと私はそう気づくさだめだったのだ。どうしても逃れることのできない。そんな宿命じみた何かに支配されていた――。
山手線のホームに着くと私はベンチに腰掛けた。そしてすっかりぬるくなってしまったコーヒーを口に含んだ。
さて――。これから私はどこに向かおうか? ふと、そんなことを思った。
もうあの会社には戻りたくないし、いっそのこと行く当てもなく旅に出ようか?
――そうだ。旅が良い。当てなどなくていい。自由にどこかに向かおう。そして美味しいものをたくさん食べて綺麗な景色をいっぱい見よう。それだけを目的にしよう……。
空を見上げると雲間から星が顔を覗かせていた。どうやら雨は上がったらしい。
私は目を細めて雲の切れ間を注意深く覗いた。夜空には今にも折れてしまいそうな三日月が浮かんでいた。 終
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