井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

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第三章 秋川千鶴の場合

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「君は雪乃の上司……だろ?」
 ラッコはまるで覚えていたことを無理に思い出したように話題を変えた。下手な人間より人間くさい仕草だ。
「まぁ……。そうね。一応は直属の上司かな」
「うんうん。やっぱりなぁ。雪乃が言ってた通りだ。綺麗な人だって言ってたからさ」
 ラッコに褒められた。しかも容姿を。正直、どう反応していいか分からなくなる。
「ありがとう。水原さんがそんなこと言ってたの?」
「そうだよ。雪乃が就職決まったときだったかな? 教育係のお姉さんがすごく綺麗な人だって言ってたんだ」
「へぇ……。そう」
 教育係のお姉さん……。私はそう呼ばれていたのか。ラッコの話で引っかかったのはその部分だった。実に水原さんらしいと思う。
「面倒見が良い人だって聞いてるよ。いやぁ、本当に雪乃が世話になったね」
 ラッコはそう言うと深々と頭を下げた。身体が乾いたのかもう水滴は零れない。
「いや、私は何もしてない」
 と私は反射的に否定した。確かに仕事は振ったけれど彼女のために何かした記憶はあまりない。
「そうかい? でも少なくとも雪乃は君に感謝しているみたいだったよ? この子はこういう子なんだ。不器用だけどちゃんと感謝はするからね」
 ラッコは真剣な目で私の方へ向き直った。黒いビー玉のような目が暗闇に光る。
「それは……。水原さんがそう思ってるだけよ。私は彼女に嫌がらせしかしてない……。水原さんの友達のあなたに言うのはアレだけど……。私、この子とは合わなかったから」
 私の言ったその言葉は暗闇に吸い込まれるように消えていった。ラッコは特に顔色を変えない。
 空を見上げるとそこには控えめな星空が広がっていた。山間部で見れる空ではない。新宿より幾ばくかマシな程度の夜空。
「ふぅ……。それでも雪乃は君のことが好きだったんだよ。だからこの間まで仕事を頑張ってた」
「それは……。まぁそうね」
「うん。だからね。僕は君に感謝したいんだ。君自身がどう思っていたかはあまり問題じゃない。僕にとって重要なのは雪乃がどう思ったかだからね」
 実に懸命なラッコだ。と私は思った。確かに彼の言うとおり、私の気持ちは関係ないのだ。彼にとって大事なのは水原雪乃からみた秋川千鶴。ただそれだけだ。
「はぁ……。本当に可哀想な子。こんな仕事以外特技のない年増女を慕うなんてさ」
 私は思いきり自虐的な気持ちを吐露した。これは本心だ。及川さんの言うとおり、きっと私は面倒くさいババアなのだと思う。
 一月前だったらそうは思わなかっただろう。しかし、ここ一ヶ月で状況は一八〇度変わってしまったのだ。信じていたもの……。いや、信じていたかったものが偽物だと気づいてしまったから。
「秋川さん。そう思うのは勝手だけどそれを言葉にするものじゃないよ」
 ラッコは慰めるでもなく、責めるでもなくそう言った。
「そうね。そうかもしれない……。でもね、これは本当のことよ。ラッコさん……。私はね。嫌な女なのよ。自分でも嫌になるくらい。独善的だったし見たいものしか見てこなかった。だからこうなったんだと思う。水原さんみたいな……。本当に大切な子をなくすまで気づけなかった」
 そこまで話して気づいてしまった――。水原さん。私はあなたが好きだったと。
 きっと彼女は私が捨ててきた過去の自分によく似ているのだ。花屋で叔母さんと一緒に暮らす前の。その頃の卑屈でどうしようもない私自身に。
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