65 / 70
第三章 秋川千鶴の場合
36
しおりを挟む
「君は雪乃の上司……だろ?」
ラッコはまるで覚えていたことを無理に思い出したように話題を変えた。下手な人間より人間くさい仕草だ。
「まぁ……。そうね。一応は直属の上司かな」
「うんうん。やっぱりなぁ。雪乃が言ってた通りだ。綺麗な人だって言ってたからさ」
ラッコに褒められた。しかも容姿を。正直、どう反応していいか分からなくなる。
「ありがとう。水原さんがそんなこと言ってたの?」
「そうだよ。雪乃が就職決まったときだったかな? 教育係のお姉さんがすごく綺麗な人だって言ってたんだ」
「へぇ……。そう」
教育係のお姉さん……。私はそう呼ばれていたのか。ラッコの話で引っかかったのはその部分だった。実に水原さんらしいと思う。
「面倒見が良い人だって聞いてるよ。いやぁ、本当に雪乃が世話になったね」
ラッコはそう言うと深々と頭を下げた。身体が乾いたのかもう水滴は零れない。
「いや、私は何もしてない」
と私は反射的に否定した。確かに仕事は振ったけれど彼女のために何かした記憶はあまりない。
「そうかい? でも少なくとも雪乃は君に感謝しているみたいだったよ? この子はこういう子なんだ。不器用だけどちゃんと感謝はするからね」
ラッコは真剣な目で私の方へ向き直った。黒いビー玉のような目が暗闇に光る。
「それは……。水原さんがそう思ってるだけよ。私は彼女に嫌がらせしかしてない……。水原さんの友達のあなたに言うのはアレだけど……。私、この子とは合わなかったから」
私の言ったその言葉は暗闇に吸い込まれるように消えていった。ラッコは特に顔色を変えない。
空を見上げるとそこには控えめな星空が広がっていた。山間部で見れる空ではない。新宿より幾ばくかマシな程度の夜空。
「ふぅ……。それでも雪乃は君のことが好きだったんだよ。だからこの間まで仕事を頑張ってた」
「それは……。まぁそうね」
「うん。だからね。僕は君に感謝したいんだ。君自身がどう思っていたかはあまり問題じゃない。僕にとって重要なのは雪乃がどう思ったかだからね」
実に懸命なラッコだ。と私は思った。確かに彼の言うとおり、私の気持ちは関係ないのだ。彼にとって大事なのは水原雪乃からみた秋川千鶴。ただそれだけだ。
「はぁ……。本当に可哀想な子。こんな仕事以外特技のない年増女を慕うなんてさ」
私は思いきり自虐的な気持ちを吐露した。これは本心だ。及川さんの言うとおり、きっと私は面倒くさいババアなのだと思う。
一月前だったらそうは思わなかっただろう。しかし、ここ一ヶ月で状況は一八〇度変わってしまったのだ。信じていたもの……。いや、信じていたかったものが偽物だと気づいてしまったから。
「秋川さん。そう思うのは勝手だけどそれを言葉にするものじゃないよ」
ラッコは慰めるでもなく、責めるでもなくそう言った。
「そうね。そうかもしれない……。でもね、これは本当のことよ。ラッコさん……。私はね。嫌な女なのよ。自分でも嫌になるくらい。独善的だったし見たいものしか見てこなかった。だからこうなったんだと思う。水原さんみたいな……。本当に大切な子をなくすまで気づけなかった」
そこまで話して気づいてしまった――。水原さん。私はあなたが好きだったと。
きっと彼女は私が捨ててきた過去の自分によく似ているのだ。花屋で叔母さんと一緒に暮らす前の。その頃の卑屈でどうしようもない私自身に。
ラッコはまるで覚えていたことを無理に思い出したように話題を変えた。下手な人間より人間くさい仕草だ。
「まぁ……。そうね。一応は直属の上司かな」
「うんうん。やっぱりなぁ。雪乃が言ってた通りだ。綺麗な人だって言ってたからさ」
ラッコに褒められた。しかも容姿を。正直、どう反応していいか分からなくなる。
「ありがとう。水原さんがそんなこと言ってたの?」
「そうだよ。雪乃が就職決まったときだったかな? 教育係のお姉さんがすごく綺麗な人だって言ってたんだ」
「へぇ……。そう」
教育係のお姉さん……。私はそう呼ばれていたのか。ラッコの話で引っかかったのはその部分だった。実に水原さんらしいと思う。
「面倒見が良い人だって聞いてるよ。いやぁ、本当に雪乃が世話になったね」
ラッコはそう言うと深々と頭を下げた。身体が乾いたのかもう水滴は零れない。
「いや、私は何もしてない」
と私は反射的に否定した。確かに仕事は振ったけれど彼女のために何かした記憶はあまりない。
「そうかい? でも少なくとも雪乃は君に感謝しているみたいだったよ? この子はこういう子なんだ。不器用だけどちゃんと感謝はするからね」
ラッコは真剣な目で私の方へ向き直った。黒いビー玉のような目が暗闇に光る。
「それは……。水原さんがそう思ってるだけよ。私は彼女に嫌がらせしかしてない……。水原さんの友達のあなたに言うのはアレだけど……。私、この子とは合わなかったから」
私の言ったその言葉は暗闇に吸い込まれるように消えていった。ラッコは特に顔色を変えない。
空を見上げるとそこには控えめな星空が広がっていた。山間部で見れる空ではない。新宿より幾ばくかマシな程度の夜空。
「ふぅ……。それでも雪乃は君のことが好きだったんだよ。だからこの間まで仕事を頑張ってた」
「それは……。まぁそうね」
「うん。だからね。僕は君に感謝したいんだ。君自身がどう思っていたかはあまり問題じゃない。僕にとって重要なのは雪乃がどう思ったかだからね」
実に懸命なラッコだ。と私は思った。確かに彼の言うとおり、私の気持ちは関係ないのだ。彼にとって大事なのは水原雪乃からみた秋川千鶴。ただそれだけだ。
「はぁ……。本当に可哀想な子。こんな仕事以外特技のない年増女を慕うなんてさ」
私は思いきり自虐的な気持ちを吐露した。これは本心だ。及川さんの言うとおり、きっと私は面倒くさいババアなのだと思う。
一月前だったらそうは思わなかっただろう。しかし、ここ一ヶ月で状況は一八〇度変わってしまったのだ。信じていたもの……。いや、信じていたかったものが偽物だと気づいてしまったから。
「秋川さん。そう思うのは勝手だけどそれを言葉にするものじゃないよ」
ラッコは慰めるでもなく、責めるでもなくそう言った。
「そうね。そうかもしれない……。でもね、これは本当のことよ。ラッコさん……。私はね。嫌な女なのよ。自分でも嫌になるくらい。独善的だったし見たいものしか見てこなかった。だからこうなったんだと思う。水原さんみたいな……。本当に大切な子をなくすまで気づけなかった」
そこまで話して気づいてしまった――。水原さん。私はあなたが好きだったと。
きっと彼女は私が捨ててきた過去の自分によく似ているのだ。花屋で叔母さんと一緒に暮らす前の。その頃の卑屈でどうしようもない私自身に。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~
海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。
そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。
そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――


1ヶ月限定の恋人を買ってみた結果
こてこて
ライト文芸
「キレイさっぱり消えて、粉になる。粉は普通ごみで捨てられるから心配いらない」
俺の自慢の彼女、それは“ハニーパウダー”であった。
落ちこぼれ大学生の俺に対し、とことん冷たかった彼女。それでも俺たちは距離を縮めていき、恋心は深まっていく。
しかし、俺たちに待ち受けているものは、1ヶ月というタイムリミットだった。
そして彼女が辿った悲痛な運命を聞かされ、俺は立ち上がる。
これは1ヶ月限定の恋人と向き合う、落ちこぼれ大学生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる