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第三章 秋川千鶴の場合

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 彼の口の中を覗くとそこには暗闇が広がっていた。そして独特の匂いがする。正直あまり気持ちの良いものではない。
「さぁ。遠慮しないで」
 彼は口を開けたままそんなことを言った。どうやらクジラは口で話すわけではないらしい。
「でも……」
 僕は言い淀んだ。いくら大シケだからって得体の知れない白鯨の口の中になんて入りたくはない。
「まぁまぁ。とりあえず入ってみなよ。ね」
 彼がそう言った直後――。僕の視界は暗転した。

 身体の感覚はある。痛みはない。例の独特の匂いだけが酷く鼻をついた。状況から察するにどうやら僕は彼の体内にいるらしい。
 最悪だ。どうやら僕は食われてしまったらしい。このままでは胃液でドロドロに溶かされて彼の腹の足しになってしまう。そう考えると流石の僕も命の危機を感じた。この状況はいただけない。あまりのことに頭より先に身体が震えるほどだ。
 どうにかして生き残りたい。と僕は思った。シャチに襲われたときよりはだいぶ緩やかではあるけれど命の危機には変わりないのだ。命の蝋燭が嵐の中で野ざらし……。そんな状況。
 どうにかここを出る手段はないだろうか? 僕は彼の体内を見渡した。まぁ……。どんなに見渡したってそこにあるのは暗闇だけ……。ではなかった。奥の方に小さな光が見える。
 その光はまるで人間のような形していた。二足歩行するような姿勢で頭部が身体の頂点にある。僕の知る限りそんなシルエットの生き物は人間か他の霊長類ぐらいしかいないと思う。
 光を眺めているとそれは段々と大きくなっていった。いや、違う。大きくなったわけではない。近づいてきているのだ。空を飛ぶように。平行移動しながらこちらに近づいてくる。
 僕はその光を黙って凝視することしか出来なかった。前足も後ろ足も動かない。すっかり乾いてしまった毛が妙にゴワゴワする。
「こんばんは」
 それはこちらに近づくとそう言った。人間の言葉だ。やはり人間……。だろうか?
「こんばんは」
 僕もそれに挨拶を返した。それには表情がない。……というよりも顔があるべき場所に顔のパーツが無かった。目も鼻も口も耳も。五感を感じるための器官が付いていない。
「まぁとりあえずここに居なよ。大丈夫。君を食べたりしないから」
 それはそう言うと笑うような仕草をした。仕草だけ。口がないので笑っているかは分からない。
 それにしても奇妙な夜だ。白鯨と光の人。今まで生きてきて出会ったことのない生き物二匹と出会ったのだ。
 まぁ仕方ない。あのヒレ三日月のシャチに襲われたときからずっと奇妙な目に遭っているし今更気にしても……。と思った。
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