井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

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第三章 秋川千鶴の場合

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 生きるための知識として。僕はその生き物のことはある程度知っていた。種族名はシロナガスクジラ。おそらくこれ以上に大きい動物は地球上に存在しないと思う。そんな生き物だ。水生生物の王。そう言って差し支えないだろう。
 僕自身、彼らの姿を見たことは何回かあった。その姿はあまりにも巨大でまるで島のようにさえ思えた。とにかく大きいのだ。おそらく彼らのの血管の中で僕は泳げる。そう感じるくらいの大きさだ。
 彼らの多くは黒い身体をしていた。……いや、逆に黒じゃない個体は見たことがない気がする。少なくとも僕が今まで出会ったクジラたちは須く黒かったし、何なら今までクジラは黒いものだと僕自身思い込んでいた。墨のように黒くザラザラとした肌。フジツボがこびり付き、ところどころに傷跡のある身体。クジラとはそういう生き物だと思う。
 しかし……。そのクジラは黒くなかった。黒くないなんてレベルじゃない。はっきり言ってそれはクジラの形をした別の白い何か。そんな風に見えた。
 
「やぁ、こんばんは」
 彼は僕の姿を見つけると穏やかな口調で語りかけてきた。
「こんばんは」
 僕は努めて平静に返事した。相手があまりに巨大すぎてどこから声が出ているのか分からない。
「君は……? ここらじゃ見かけない顔だけど」
 クジラはそう言うと大きな目を僕のほうへ向けた。目だけでも僕の身体より大きい。
「僕はラッコ。もっと冷たい海から来たんだ」
「冷たい海? ああ……。そうかそうか。そういえば昔に君に似た生き物をどこかで見た気がするよ。確かあれは……。大陸の近くだった」
 大陸の近く。一体どこのことを言っているのだろう? 僕の生まれ育った岩礁の近くだろうか?
 僕のそんな疑問を余所に彼は続ける。
「まぁいい。君はどうしてここに居るんだい? 仲間と……。はぐれたのかい?」
「まぁ……。そんなとこだね」
 僕はそんな風に曖昧に答えた。本当は違うけれど僕の事情を彼に説明するのはかなり難しいと思う。
「そうかそうか。それは難儀だねぇ……。それより今日はシケだけど大丈夫かい?」
 彼は心配そうに言うと「ふぉふぉふぉ」と奇妙な笑い声を上げた。
「うーん……。正直あまり大丈夫じゃないかな」
「ふぉふぉふぉ。だろうね」
 笑っているのか心配しているのか。正直、僕には彼の真意が分からなかった。それぐらい僕と彼の間には生き物としての壁があるのだ。まぁ種族が違うのだから当然だとは思う。(幸いなことに僕は彼の夕飯にはならないらしいけれど)
「うーん……。そうだね……。あ! そうしたらシケが収まるまで僕のお腹の中に避難するのはどうだろう? なぁに、食べたり飲み込んだりしないから安心して良いよ」
 彼はそう言うと大きな口を開いた。彼の口にはたくさんのヒゲが並んでいた。
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