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第三章 秋川千鶴の場合

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 久しぶりの狩りだ。かれこれ二年ぶりだろうか? あまりに久しぶり過ぎて最初潜り方を考えてしまうほどだった。まぁ、幸いなことに野生の本能は簡単に消えず僕の中に残っていてくれたのだけれど。
 海の中はとても暗く、僕の生まれ育った北海とはまるで違った。そこかしこに人工物の残骸が沈み、その中には自転車やベビーカーまであった。なぜ海中にこんなものが? そんな疑問が浮かぶ。当然のように誰も答えてはくれない。おそらく人間だって答えられないだろう。彼らはそれぐらいには愚かなのだ。
 僕はそれらのゴミを横目に必死で魚を捕った。海底に潜って貝も拾った。残念ながらホタテの姿はない。どうやらここにホタテは居ないようだ。
 それから僕は捕ってきた魚と貝を貪った。命の味がする。さっきまで生きていた。そんな味だ。
 久しぶりの満腹に僕はとても幸せな気持ちになった。ありがとうアジとミル貝とハマグリ。君たちの命は大切に僕の命に変えるよ。そんなことを思った。きっと人間で言うところの感謝だとか宗教だとかそういった類いの感情だと思う。
 ふと空を見やると大きくて黒い雲が浮かんでいた。これから嵐が来る。そんな雲だ。
 とりあえず避難せねば。どこか適当な岩礁か陸地に避難しよう。僕は本能のままにそう思った――。

 その日の夜。僕の予想はピタリと的中した。嵐。しかもとびきり大きな嵐だ。
 やれやれ。もしかしたらここで僕の命も途切れてしまうかも知れない。僕はある種の達観を覚えた。もう死線をくぐり抜け過ぎたのだ。今更「死」の危機に動揺したりしない。
 それでも……。生き残りたいとは思った。ただただ自然に命を蹂躙されてたまるか。どうせ死ぬなら最後まで抗ってやろう。死ぬ気になれば半分くらいは生き残れるのだから……。
 そんな折、僕は「アレ」と出会った。真っ白な身体。シャチの数十倍はあろうかという巨体。そんな生き物と。
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