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第三章 秋川千鶴の場合

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 その貯水池は井の頭公園の近くにあった。フェンスに囲まれ、その中には四角い池がポツリとあった。大きさは銭湯の浴槽くらい。フェンスの前には「井の頭第三貯水池」と行政的なプレートが付いている。
 水原さんは相変わらず具合が悪そうで、暗がりで見ても血色の悪い顔をしていた。明らかに飲み過ぎたのだ。この子はいつも加減を知らない。
「で? 友達の家どこ?」
 私は思いきり怪訝に水原さんに尋ねた。とりあえず貯水池に来た。おそらくこの近所に友達の家があるのだろう。
「ここで合ってます」
 水原さんはこともなげに言うと大きく息を吸った。そして「ラッコさーん」と貯水池に向かって叫んだ。急に叫ぶので思わず「え?」と変なところから声が出てしまった。ラッコさん? 何の話だ?
 そんな私の思いを余所に貯水池からチャポンという音が聞こえた。そして何か大きなモノがこちらに向かって流れてくる。
「おぉう、雪乃じゃん。今日は遅いね」
 流れてきたそれはのっそりと貯水池から這い上がってきた。そして濡れた犬のように身体をグルグルと回して身体に付いた水滴を飛ばした。どうやら何らかの生き物……。のようだ。
「ラッコさぁーん。帰ってきたよー」
 水原さんはまるで当たり前のようにその生き物に話しかけた。その生き物も「そうかそうか。おかえり」と普通に返す。
 私はかすかな街灯に照らされるその生き物をまじまじと見た。どうやら爬虫類ではないらしい。見たところイタチのように身体は長い。そんな生き物……。いや、私はこの生き物を知っている。昨日、夢に見たあの生き物だ。
 海に浮かんで石で貝を割って食べる。そんな生き物だ。天敵はシャチ。そんな整合性の欠けたイメージだけが暗闇の中に浮かんだ。まぁ、私自身、生でラッコを見たことはないのだけれど。
「えーとね。この人は秋川さんだよ。私の会社の先輩なんだ」
 水原さんはふいに私をラッコに紹介した。人外に紹介されたのは生まれて初めてだと思う。
「ああ、君が……。初めまして」
 ラッコは丁寧に言うと濡れた前足を私の前に差し出した。
「は、はじめまして……」
 私は反射的にその前足を握った。おそらく握手……。なのだろう。
 濡れたラッコの前足を握りながら私は妙な気分になった。普通なら叫んで逃げ出す場面だと思う。でもなぜか私はそうしなかった。
 たぶん私は既に非現実に落ちていたのだ。だからこの程度のことでは叫んだりしない。逆にこのラッコと語り合いたい。そう思うくらいだ。
 そんな私の思いを知ってか知らずそのラッコは「まぁ座りなよ」と言ってくれた。
 私は「ありがとう」と言って貯水池の土手に腰を下ろした。
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