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第三章 秋川千鶴の場合

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「おはようございます」
 私がデスクで朝礼の準備をしていると及川さんに声を掛けられた。
「おはよう」
 私は努めて明るく応えた。作り笑顔。営業技術の一部のような顔作りだ。
「あの、水原さんから電話あって体調が優れないので休むそうです」
「あら? そうなの。分かったわ」
 水原さんが欠勤? まぁ、部署としては問題ないと思う。むしろ居なくてせいせいするぐらいだ。
「……。それと笹原常務から伝言です。朝礼後、会議室に来て欲しいそうです」
「そうなのね……。了解。分かった。言づてありがとうね」
 私は再び笑顔を作った。作為的に作れる笑顔。なんて便利なんだ。きっと及川さんだって悪い気はしないと思う――。

 朝礼後、私はすぐに八階の会議室へ向かった。相変わらずエレベーターのワイヤーの調子が悪いらしい。ギチギチギチギチ。そんな鈍い音が天井から聞こえてくる。
 音に気を取られていると八階に着いた。会議室フロア。今日は午後からここで役員に向けたプレゼンがある。
 会議室の扉をノックする。二秒ほど待つと「どうぞ」という声が返ってきた。笹原常務の声だ。
 笹原常務は会社ではかなりの古株の女性社員だ。創業当時からこの会社に居るらしい。でもお局ということもなくとても優しい女性だった。みんなの笹原常務。そう言われるくらいには慕われている。まぁ、かく言う私も彼女のことは慕っていた。大切な理解者。そして私にとって最初の教育係。そんな存在だ。
 会議室の扉を開けると中には夥しい数のマネキンが並んでいた。どのマネキンも同じ方向を向いて新作の下着を着けている。マネキン同士の距離。下着の着付け方。どちらも申し分ない。
 実に水原さんらしいな。私は素直にそう感心した。彼女はこの手の仕事になると本当に几帳面になのだ。きっと職人気質なのだと思う。コミュニケーションがいらない仕事なら適性があるのかも知れない。
 そんなマネキンの森に埋もれるように彼らは待っていた。笹原常務、広報部長、そして田辺さん……。メンツから察するに呼び出された理由は昨日の広告の一件のようだ。
「おはようございます」
 私は口元を緩めて彼らに挨拶した。及川さんにしたより幾分固まった笑顔だと思う。
「おはよう秋川さん。朝から悪いね」
 笹原常務はそう言うと「まぁ座って」と私に座るように促した。
「どう企画部は? 主任にも慣れた?」
 笹原常務はまるで世間話でもするように言った。いや、実際世間話のつもりなのだろう。
「ええ、だいぶ慣れました。毎日てんてこ舞いですけどね」
「そう! なら良かった。今度またお話聞かせてね」
 女子二人で和気藹々している横で広報部の二人は私を睨んでいた。察するに今回呼び出されたのはこの人たちの差し金だと思う。おそらくは「俺たちの部の輪を乱すな」と釘を刺したいのだ。
「さて……。じゃあ始めましょうか」
 そんな私の思いを知ってか知らずか笹原部長はにこやかに話を切り出した――。
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