上 下
36 / 70
第三章 秋川千鶴の場合

しおりを挟む
 山手線は私にとって特別な電車だった。自由の象徴。楽園への移動手段。そう思うようになったのはおそらく厳格すぎる両親のせいだと思う。
 彼らは幼い頃から私を厳しく躾けた。躾けといえば聞こえは良いけれどそれは限りなく折檻に近かったと思う。体罰だってあったし、冬の真夜中に寒空の下に放り出されたことも一回や二回ではなかった。
 だから私にとって両親は尊敬と言うよりも畏怖の対象だった。彼らを怒らせてはいけない。怒らせれば彼らはどこまでも私を躾けてくる。本気でそう思っていた。
 そんな私に転機が訪れたのは高校進学のときだ。義務教育の終焉。それは私にとって吉報だった。
 私は両親を説得して実家からできるだけ遠く、且つ両親が満足する程度の偏差値の学校を受験した。(幸か不幸か、両親の厳しい躾けのお陰で私の学力は良かった)
 建前上は「将来のことも考えて良い学校に入りたい」と言って彼らの欲しい答えになるように努めた。今思い返すとそれはかなり効果的だったと思う。両親はそういう類いの人たちなのだ。自尊心と虚栄心だけは誰よりも強い。忌むべき人種。
 おそらく両親にとって私は世間体のための道具でしかなかったのだと思う。まぁ、それに気づいたのはずっと後のことだけれど。
 親元から離れた私は父方の叔母の家に下宿させてもらった。彼女は花屋を経営していて、店舗兼自宅が私の下宿先だった。(その当時、叔母さんはまだ未婚で部屋を持て余していた)
『小さい部屋だけど好きに使って良いよ』
 叔母さんはそう言って私に部屋を貸してくれた。四畳半のこぢんまりした畳の部屋だ。その部屋は日当たりは最悪でいつもジメジメしていた。でもそんな傍から見たら最悪な部屋が私にとっては天国だった。あの両親がいない。ビクビクしないで済む。それだけで心が軽くなった。
 これは推測だけれど、おそらく叔母さんは私の実家の内情を知っていたのだと思う。彼女は父(叔母さんにとっては兄)の性格をよく理解していたし、私の母の底意地の悪さもよく知っていた。はっきり言って叔母さんと私の両親の仲は最悪だったのだ。残念な事実。紛れもない真実。
 でも……。そんな嫌いな兄夫婦の娘だというのに叔母さんはいつも私に優しい言葉を掛けてくれた。決して押しつけがましい優しさではない。どちらかというとそれは放任に近かったと思う。愛情と自由。その両方を彼女は与えてくれたのだ。
 だから叔母さんとの生活は本当に楽しかった。朝は一緒に民放放送でやっている星占いを見て互いに一喜一憂した。夕食のときはバラエティ番組を見ながら二人で大笑いした。そんな当たり前の日常がたまらなく幸せだった――。

 そんなことを考えていると耳にあの甲高いアナウンスが再び響いた。現実の音。それはいつまでも思い出に浸っていてはいけないという警告音のように聞こえた。
 視線を上げると五台目の電車が私の前に停車していた。さて……。コレに乗って帰ろう。私の自由はまだ続いているのだから。
しおりを挟む

処理中です...