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第三章 秋川千鶴の場合

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 仕事が終わった。残業はなし。飲み会もなし……。今日は帰ったら何をしよう。早い時間だし洗濯機を回してついでに掃除機もかけようかな? そんな主婦みたいな考えが私の頭の上をくるくる回る。
 基本的に普段は定時退社なんて出来ない。だから自然と笑みが零れた。今日あったゴタゴタは明日に回そう。そんな優しい気持ちになれる。
「お疲れ様でしたー」
 私はフロア全体に声を掛けた。山彦のように「お疲れ様です」と返ってくる。
 外に出ると都心の空気が肌に刺さった。新宿の街に夜が降り始めている。駅に向かう途中、水商売風の女性たちとすれ違った。彼女たちは皆きつい匂いの香水をプンプン漂わせながら足早に歌舞伎町方面に消えていった。彼女たちの戦場はあっちなのだろう。まぁ、私には関わりの無い世界だ。
 新宿駅は例によって酷い混みようだった。世界最大の昇降客数の駅というのは伊達でない。人々が一つの生き物のようにこちらに向かって流れてくる。そして改札を抜けると再び個に戻る。訓練された鰯の群れみたいだ。鰯が訓練できるかは知らないけれど――。

 山手線ホームのベンチに座った。そしてさっきスタバで買ったドリップコーヒーを飲みながら行き交う人たちと電車を眺めた。耳に痛いくらい甲高いアナウンスがホーム全体に響いている。
 それにしても今日は不思議な一日だった。広報部で揉めた一件のあとは酷く平和だった。あとは帰って寝るだけ。寝る前に好きな占い師の配信に行こうかな……。そんな行き当たりばったりなことを考えているうちに電車を三台も見送ってしまった。緑のラインの電車。私にとってのライフライン。山手線だ。
 思えば学生の頃から山手線ばかりに乗っていた気がする。高校も新宿だったし、大学だって山手線沿線だった。だから私にとってこの路線は本当に生命線なのだ。生きるために乗る電車。前に進むための電車。まぁ、山手線はどんなに前に進んでも元の場所に戻ってきてしまうのだけれど。
 四台目の車両がホームに入ってきた。これに乗れば帰れる。でも私はその電車にも乗らなかった。
 次にしよう。まだコーヒーは残っているし、もう一台くらいは出発する車両を眺めていたい。そんな無駄なことを思った。
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