井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

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第三章 秋川千鶴の場合

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 広報部から自分のフロアに戻ると課長に声を掛けられた。
「秋川さーん。水原さんがエレベーター占拠してるから移動はできるだけ階段でお願いね」
 どうやら水原さんの力仕事が始まったらしい。単純な軽作業。簡単に言えば展示会で使うマネキンの運搬だ。
「はーい。了解です」
「誰か手伝い行かせたほうがよくない? さすがに水原さん一人じゃ可哀想でしょ?」
「いえ、大丈夫だと思いますよ。あの子、この手の仕事好きなんで」
「そう? 秋川さんがそう言うならいいけど……」
 課長は『私は形だけは心配したからね』と言わんばかりに企画部内を見渡した。まぁポーズは大事だと思う。どうせ腹の中では誰一人として水原さんを手伝いたくはないのだ。
 別にこれはマネキン運搬が大変な仕事だからではない。確かに力仕事だし疲れるとも思う。でも彼女を手助けしないのはそんな理由ではないと思う。もっと人間関係的な理由。関わりたくないとかそんな感覚だ。
 彼女と関わるとろくな目に合わない。それが企画部社員の総意だった。歩く厄災。一生懸命な疫病神。彼女を形容するとすればそうなると思う。
 おそらく彼女には人間として生きていくためのスキルがないのだろう。特に相手の顔を立てるだとか身を引くだとかそういった感覚が明らかに欠落しているように思う。
 思い返せばそのせいで起きたトラブルは数知れなかった。取引先から弊社役員に至るまで彼女のせいで割を食っていたと思う。まぁ、一番割を食ったのは直属の上司である私なのだけれど。
 水原さんを見るたびに思う。ああ、神様はなんて残酷なんだ。善良でクソ使えない人間と悪辣で優秀な人間をなぜ同じ世界に解き放った。これじゃ両方とも共倒れじゃないかと――。

 その日は恐ろしいほど穏やかに時間が流れていった。特にクレームもなかったし部内で揉め事も起こらなかった。午前中にあった例の一件が嘘のようだ。
「及川さん。ちょっといい?」
「はい!」
 定時まであと少しというところで私は及川さんに声を掛けた。
「はいコレ。一応赤ペンで意見書いといたから修正の参考にしてね」
「ありがとうございます! アハハ、やっぱりダメでしたよね……」
「うーん……。発想自体は悪くないと思うよ? ただねぇ、企画会議に出すには荒削り過ぎたかもね」
「ですよね……。分かりました! ありがとうございます!」
 なんて素直な子だろう。あの役立たずとは大違いだ。
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