井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

文字の大きさ
上 下
24 / 70
第二章 菱沼浩之の場合

13

しおりを挟む
 どれほどその海水プールで過ごしただろう? 窓から見える広葉樹の新芽の様子から季節は二つはほど過ぎたようだ。
 その頃の僕はすっかり牙を抜かれ(比喩的な意味だ)大人しくなっていた。相変わらずイカはシャリシャリしていたし、飼育員の女性は優しかった。猫かわいがり。そんな言葉がぴったりだと思う。ラッコを猫かわいがり。正直笑えない。
 こうしてこの檻のような箱庭で年老いて死んでいくのか。そんな予感が夜のたびに押し寄せてきた。波も立たないこんな狭いプールで一生を終えそうだ。それはどう足掻いても絶望だった。あの大海原でシャチに追われていたときのほうが生きていた。本気でそう思う。
 こうして安全な場所にいるとつくづく思う。生きるためには常に命を落とす危険性が必要なのだ。安全な場所でぬくぬく命を保ってはいけない。それはゆっくりと自殺するのと同義だ。生物学的な『生』だけでは生きているとは言えない。『生』とはもっと生き物の本質的なものなのだ。それは『魂』だとか『自我』だとかそういった存在――。あるいは『神』のような存在かもしれない。そんな超常的な存在が徐々に失われる。それは非常に恐ろしいことだと僕は思う――。

 そんなある日。僕は狭いプールから連れ出され、冷たい鉄製の檻に閉じ込められた。その檻は非常に黒く、まるであのヒレ三日月のシャチのようだった。まぁ、ヒレ三日月のシャチの方がまだ温かみがあるとは思うけれど。
 檻に入れられると僕は大きなトラックに積み込まれた。トラックの横っ腹には大きな口をした鳥の絵が描かれていた。見たことのない鳥だ。ウミネコやカラスとも違う。
 それから僕はトラック荷台の閉じ込められる羽目になった。僕以外には大型の魚(おそらくサメの仲間だと思う)とメスのカワウソがいた。(当時の僕はその生き物がカワウソだとは知らなかったけれど)
「これからどこへ行くんだろう?」
 僕はなんとはなしにカワウソに話しかけた。
「あら? あなた知らないの? 今から本州の水族館に行くのよ」
「そうなのかい? 僕はてっきりシャチの餌にでもされるのかと思ったよ」
「シャチってあの大きなイルカみたいなやつ?」
「そうそう。奴らは僕の天敵なんだ」
「そうなのね……。でも大丈夫よ。今から行くのは大洗と江ノ島だからね。あ、私が江ノ島で君が大洗のはずよ」
 なんでこんなに詳しいのだろう? 僕は自然な疑問としてそう思った。
「ずいぶんと詳しいんだね」
「アハハ、まぁねぇ。私もあの水族館長かったからね。芸だって上手かったのよ?」
 そう言うと彼女は戯けたように胸を抱えてうずくまった。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫! 死んだフリだから! ね? 上手いでしょ?」
 彼女はケタケタ笑いながら再び死んだフリをした。
「それって面白いのかい?」
「たぶんね。正直私にはわからないわ。でも人間はこういうの好きみたいよ? 可愛い毛むくじゃらは人間に可愛がられるのよ」
 あざとい。と僕は思った。なんてあざとさだ。どうやったら人間が自分に優しくするかよく理解している。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はチェリー。見ての通りカワウソよ。あなたは?」
「僕は……。名前なんてないよ。種類はラッコだね。人間たちはそう呼んでた」
「あらぁ。名前貰えなかったのね。可哀想に」
 何が可哀想なのか理解できない。名前があると何かいいことがあるのだろうか?
「まぁいいわ。名前がないなら『ラッコ』さんって呼ばせて貰うわね」
「それでいいよ。幸いここには僕以外のラッコもいないしね」
 そんな話をしていると懐かしい匂いが鼻を突いた。海の匂いだ。あの人工的なプールとは違う。本当の海の匂い。
「あら? そろそろフェリーに乗るみたいね」
 チェリーはそう言うと檻の格子をがっしり掴んだ。
「あなたも掴まったほうがいいわよ。フェリーに乗り込むときはすごく揺れるんだから」
 フェリーってなんだ? 海の近くに来たのは確かだけれど……。
 まぁいい。とりあえず彼女の言葉に従おう。その方が賢明だと思う。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

続きは第一図書室で

蒼キるり
BL
高校生になったばかりの佐武直斗は図書室で出会った同級生の東原浩也とひょんなことからキスの練習をする仲になる。 友人と恋の狭間で揺れる青春ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...