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第二章 菱沼浩之の場合
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どれほどその海水プールで過ごしただろう? 窓から見える広葉樹の新芽の様子から季節は二つはほど過ぎたようだ。
その頃の僕はすっかり牙を抜かれ(比喩的な意味だ)大人しくなっていた。相変わらずイカはシャリシャリしていたし、飼育員の女性は優しかった。猫かわいがり。そんな言葉がぴったりだと思う。ラッコを猫かわいがり。正直笑えない。
こうしてこの檻のような箱庭で年老いて死んでいくのか。そんな予感が夜のたびに押し寄せてきた。波も立たないこんな狭いプールで一生を終えそうだ。それはどう足掻いても絶望だった。あの大海原でシャチに追われていたときのほうが生きていた。本気でそう思う。
こうして安全な場所にいるとつくづく思う。生きるためには常に命を落とす危険性が必要なのだ。安全な場所でぬくぬく命を保ってはいけない。それはゆっくりと自殺するのと同義だ。生物学的な『生』だけでは生きているとは言えない。『生』とはもっと生き物の本質的なものなのだ。それは『魂』だとか『自我』だとかそういった存在――。あるいは『神』のような存在かもしれない。そんな超常的な存在が徐々に失われる。それは非常に恐ろしいことだと僕は思う――。
そんなある日。僕は狭いプールから連れ出され、冷たい鉄製の檻に閉じ込められた。その檻は非常に黒く、まるであのヒレ三日月のシャチのようだった。まぁ、ヒレ三日月のシャチの方がまだ温かみがあるとは思うけれど。
檻に入れられると僕は大きなトラックに積み込まれた。トラックの横っ腹には大きな口をした鳥の絵が描かれていた。見たことのない鳥だ。ウミネコやカラスとも違う。
それから僕はトラック荷台の閉じ込められる羽目になった。僕以外には大型の魚(おそらくサメの仲間だと思う)とメスのカワウソがいた。(当時の僕はその生き物がカワウソだとは知らなかったけれど)
「これからどこへ行くんだろう?」
僕はなんとはなしにカワウソに話しかけた。
「あら? あなた知らないの? 今から本州の水族館に行くのよ」
「そうなのかい? 僕はてっきりシャチの餌にでもされるのかと思ったよ」
「シャチってあの大きなイルカみたいなやつ?」
「そうそう。奴らは僕の天敵なんだ」
「そうなのね……。でも大丈夫よ。今から行くのは大洗と江ノ島だからね。あ、私が江ノ島で君が大洗のはずよ」
なんでこんなに詳しいのだろう? 僕は自然な疑問としてそう思った。
「ずいぶんと詳しいんだね」
「アハハ、まぁねぇ。私もあの水族館長かったからね。芸だって上手かったのよ?」
そう言うと彼女は戯けたように胸を抱えてうずくまった。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫! 死んだフリだから! ね? 上手いでしょ?」
彼女はケタケタ笑いながら再び死んだフリをした。
「それって面白いのかい?」
「たぶんね。正直私にはわからないわ。でも人間はこういうの好きみたいよ? 可愛い毛むくじゃらは人間に可愛がられるのよ」
あざとい。と僕は思った。なんてあざとさだ。どうやったら人間が自分に優しくするかよく理解している。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はチェリー。見ての通りカワウソよ。あなたは?」
「僕は……。名前なんてないよ。種類はラッコだね。人間たちはそう呼んでた」
「あらぁ。名前貰えなかったのね。可哀想に」
何が可哀想なのか理解できない。名前があると何かいいことがあるのだろうか?
「まぁいいわ。名前がないなら『ラッコ』さんって呼ばせて貰うわね」
「それでいいよ。幸いここには僕以外のラッコもいないしね」
そんな話をしていると懐かしい匂いが鼻を突いた。海の匂いだ。あの人工的なプールとは違う。本当の海の匂い。
「あら? そろそろフェリーに乗るみたいね」
チェリーはそう言うと檻の格子をがっしり掴んだ。
「あなたも掴まったほうがいいわよ。フェリーに乗り込むときはすごく揺れるんだから」
フェリーってなんだ? 海の近くに来たのは確かだけれど……。
まぁいい。とりあえず彼女の言葉に従おう。その方が賢明だと思う。
その頃の僕はすっかり牙を抜かれ(比喩的な意味だ)大人しくなっていた。相変わらずイカはシャリシャリしていたし、飼育員の女性は優しかった。猫かわいがり。そんな言葉がぴったりだと思う。ラッコを猫かわいがり。正直笑えない。
こうしてこの檻のような箱庭で年老いて死んでいくのか。そんな予感が夜のたびに押し寄せてきた。波も立たないこんな狭いプールで一生を終えそうだ。それはどう足掻いても絶望だった。あの大海原でシャチに追われていたときのほうが生きていた。本気でそう思う。
こうして安全な場所にいるとつくづく思う。生きるためには常に命を落とす危険性が必要なのだ。安全な場所でぬくぬく命を保ってはいけない。それはゆっくりと自殺するのと同義だ。生物学的な『生』だけでは生きているとは言えない。『生』とはもっと生き物の本質的なものなのだ。それは『魂』だとか『自我』だとかそういった存在――。あるいは『神』のような存在かもしれない。そんな超常的な存在が徐々に失われる。それは非常に恐ろしいことだと僕は思う――。
そんなある日。僕は狭いプールから連れ出され、冷たい鉄製の檻に閉じ込められた。その檻は非常に黒く、まるであのヒレ三日月のシャチのようだった。まぁ、ヒレ三日月のシャチの方がまだ温かみがあるとは思うけれど。
檻に入れられると僕は大きなトラックに積み込まれた。トラックの横っ腹には大きな口をした鳥の絵が描かれていた。見たことのない鳥だ。ウミネコやカラスとも違う。
それから僕はトラック荷台の閉じ込められる羽目になった。僕以外には大型の魚(おそらくサメの仲間だと思う)とメスのカワウソがいた。(当時の僕はその生き物がカワウソだとは知らなかったけれど)
「これからどこへ行くんだろう?」
僕はなんとはなしにカワウソに話しかけた。
「あら? あなた知らないの? 今から本州の水族館に行くのよ」
「そうなのかい? 僕はてっきりシャチの餌にでもされるのかと思ったよ」
「シャチってあの大きなイルカみたいなやつ?」
「そうそう。奴らは僕の天敵なんだ」
「そうなのね……。でも大丈夫よ。今から行くのは大洗と江ノ島だからね。あ、私が江ノ島で君が大洗のはずよ」
なんでこんなに詳しいのだろう? 僕は自然な疑問としてそう思った。
「ずいぶんと詳しいんだね」
「アハハ、まぁねぇ。私もあの水族館長かったからね。芸だって上手かったのよ?」
そう言うと彼女は戯けたように胸を抱えてうずくまった。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫! 死んだフリだから! ね? 上手いでしょ?」
彼女はケタケタ笑いながら再び死んだフリをした。
「それって面白いのかい?」
「たぶんね。正直私にはわからないわ。でも人間はこういうの好きみたいよ? 可愛い毛むくじゃらは人間に可愛がられるのよ」
あざとい。と僕は思った。なんてあざとさだ。どうやったら人間が自分に優しくするかよく理解している。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はチェリー。見ての通りカワウソよ。あなたは?」
「僕は……。名前なんてないよ。種類はラッコだね。人間たちはそう呼んでた」
「あらぁ。名前貰えなかったのね。可哀想に」
何が可哀想なのか理解できない。名前があると何かいいことがあるのだろうか?
「まぁいいわ。名前がないなら『ラッコ』さんって呼ばせて貰うわね」
「それでいいよ。幸いここには僕以外のラッコもいないしね」
そんな話をしていると懐かしい匂いが鼻を突いた。海の匂いだ。あの人工的なプールとは違う。本当の海の匂い。
「あら? そろそろフェリーに乗るみたいね」
チェリーはそう言うと檻の格子をがっしり掴んだ。
「あなたも掴まったほうがいいわよ。フェリーに乗り込むときはすごく揺れるんだから」
フェリーってなんだ? 海の近くに来たのは確かだけれど……。
まぁいい。とりあえず彼女の言葉に従おう。その方が賢明だと思う。
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