井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

文字の大きさ
上 下
21 / 70
第二章 菱沼浩之の場合

10

しおりを挟む
 いをりさんに着いていくと貯水池にたどり着いた。周りは金網で囲われ、横には小さな小屋が建っている。水面には月が反射し小さく波立っていた。
「ここだよ」
 いをりさんはそう言うと、次の瞬間「ラッコさーん」と貯水池に向かって叫んだ。
「あの、いをりさん……?」
 僕がそう問いかけると同時に貯水池からチャポンという水のはねる音が聞こえた。大きな魚がはねたような音だ。そして音の方向から何か大きなモノがこちらに向かって流れてくる。
「おぉ、いをりぃ。よく来たなぁ」
「うん。急にごめんねー」
 いをりさんは何事もなかったかのようにその流れてきたモノと話し始めた。大きさは小学生ぐらい、全身が毛に覆われ、顔と思われる場所には固そうな髭が生えている。
「いをりさん? この方は?」
 正直に言おう。僕はそのときは状況が全く飲み込めなかった。少なくとも目の前に居るそれが何なのかさえ理解できなかった。人間ではない何か。分かったのはそれだけだ。
「ん? ああ、紹介するよ。こちらラッコさん」
 いをりさんはまるで幼なじみでも紹介するようにフランクにその生き物を紹介した。ラッコさんというのだからおそらくラッコなのだと思う。
「初めまして。『潮田楽尾』です」
 ラッコさんはそう自己紹介すると脇の下から名刺を取り出して僕に差し出した。僕はそれを反射的に受け取る。受け取った名刺は湿っていて、少し磯の香りがした。貝類の匂い……。だと思う。
「ライト文芸作家さん……? ですか?」
「そうそう。ライト文芸作家だよ。えーとね。簡単に言うと大衆文芸作品を読みやすい文体にした奴ね……。って大衆文学がよく分からないか」
 ラッコさんはそう言うと「ふはっ」と不思議な笑い方をした。笑う彼の口からは立派な二本の牙が見える。
「そうなんですね……」
 僕はそれしか返せなかった。井の頭公園近くの貯水池、日本語を話すラッコ、ライト文芸作家。もう何が何だか分からない。
「菱沼くん。君が何を考えてるかは分かるよ。私も初めてラッコさんに会ったときは驚いたからさ」
 いをりさんは僕の肩をポンと叩いた。
「でもこの人……。いや人じゃないけど、ラッコさんは悪い奴じゃないから安心していいよ。ってかかなり良い奴だからさ」
 友達を絶賛する。それ自体は良くある話だ。でもその友達が人外なのは僕にとって初めての体験だった。しかもラッコ。僕らとの共通点があまりにも少なすぎる水生哺乳類。
「えーと。菱沼さん」
 ラッコさんは改まって言うと「オホン」とわざとらしく咳払いをした。
「見ての通り僕はラッコだよ。そりゃあいきなり信じろって方が無理があると思う。もし僕が人間だとして、話すラッコを見たら鳴を上げると思う。実際、悲鳴を上げられたことも何回かあるしね……」
 そこまで話すとラッコさんはまた「ふはっ」と笑った。どうやら彼は自分の話の途中に笑う癖があるらしい。
「だから無理に僕の存在を肯定しろだとか、そんなことは言わないよ。でもね、もし僕の話を聞く気があるなら聞いて欲しいことがあるんだ。どうかな? 僕の話を聞いていくかい?」
 と言うとラッコさんは首を傾げて見せた。月明かりの下のラッコ。黒いビー玉のような目だけが闇夜に光る。
 いをりさんは僕たちの様子を隣から黙って見ていた。おそらく彼女もラッコさんの話を聞いたことがあるのだと思う。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。 美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!! 【2022/6/11完結】  その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。  そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。 「制覇、今日は五時からだから。来てね」  隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。  担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。 ◇ こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく…… ――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

続きは第一図書室で

蒼キるり
BL
高校生になったばかりの佐武直斗は図書室で出会った同級生の東原浩也とひょんなことからキスの練習をする仲になる。 友人と恋の狭間で揺れる青春ラブストーリー。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

1ヶ月限定の恋人を買ってみた結果

こてこて
ライト文芸
「キレイさっぱり消えて、粉になる。粉は普通ごみで捨てられるから心配いらない」 俺の自慢の彼女、それは“ハニーパウダー”であった。 落ちこぼれ大学生の俺に対し、とことん冷たかった彼女。それでも俺たちは距離を縮めていき、恋心は深まっていく。 しかし、俺たちに待ち受けているものは、1ヶ月というタイムリミットだった。 そして彼女が辿った悲痛な運命を聞かされ、俺は立ち上がる。 これは1ヶ月限定の恋人と向き合う、落ちこぼれ大学生の物語。

処理中です...