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第二章 菱沼浩之の場合

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 店に入って少し待つと窓際の席に案内された。
「とりあえず焼き鳥各種三本ずつ。あと生中二つね」
 いをりさんはさも当たり前のように店員に注文を伝える。
「あの……。当店の焼き鳥、一五種類あるんですが……。大丈夫ですか?」
「ん? ああ、食えっから大丈夫だよ。じゃんじゃん持ってきて!」
「わかりました……。少々お待ちください」
 そう言うと店員さんはオーダー用紙に書き込んで厨房に下がっていった。
「あの子新人かな?」
 店員が行ってしまうと彼女はポツリと呟いた。
「でしょうね。僕も初めて見ました。まぁ……。僕らが毎日入り浸ってたのはもう二年前ですしね」
「そりゃそうかぁ。あーあ、あの頃は『いつものね』でも持ってきてくれたのにさぁ」
 いをりさんは残念そうに首を横に振った。彼女の言うとおり、以前は「いつもの」で通っていたのだ。たしかに少し残念ではある。
「昨日の配信聴いたよ」
「ああ、そりゃどうも……」
 ああ、やっぱりか。そんなところだろうと思った。と心の中で付け加える。
「アレだね。菱沼くんは女性に対してデリカシーがないね」
「そりゃどうも」
 普通なら「そりゃどうも」なんて返答あり得ないと思う。でもいをりさんの言う『デリカシーのなさ』は褒め言葉なのだ。適度なデリカシーのなさはいついかなる時も役に立つ。鈍感はときに鈍器になる。とは彼女の言だ。
「いや、マジでなかなか良かったよ。『おチヅ』をスッパリ切ったのはさ」
「あれ? あの人お知り合いですか?」
「うーん。知り合って言うか……。あいつウチらの界隈だと有名人なんだよね。菱沼くんの枠にだっていつも潜ってたと思うよ? ま、君の枠は閲覧人数多すぎるから気づいてなかったろうけどね」
 有名人。これは『デリカシーのなさ』とは対極の意味合いだ。悪名高いとかトラブルメーカーだとかメンヘラだとかそんな意味合い。
「ああ……。どうりでコメントに面倒な匂いが染みついてると思いました」
「うん。あいつマジ面倒くさいよ。関わらなくて正解。ほら、紫山さんちょっと前にトラブってたじゃん? あれ『おチヅ』の件だよ。あの女マジでおかしいからさぁ」
「ああ、それで紫村さん廃業したんですか……。知らなかった」
 紫村さん。僕らと同業者だ。彼は僕らと違ってオラクルリーダーではないけれど占い(ジャンル的には占星術)を生業にしていた。
 彼の廃業は少なからずスピュリチュアル界隈を震撼させた。彼は僕らよりずっとキャリアが長い人だったし、廃業前の彼のツイッターのフォロワーは数万人もいたのだ。まさに人気の絶頂。そんな売れっ子占い師だったと思う。
 だから紫村さんが廃業したときは様々な憶測が流れた。脱税が見つかったとか、詐欺まがいな商売していたとか。そんな悪い噂まで流れる始末だ。(まぁ、僕の耳に届いた噂はいをりさんが話してくれた内容に限りなく近かったわけだけれど)
「ねー。紫村さんいい人だったからショックだよ。まさかイチメンヘラに廃業させられるなんて思ってなかったんじゃないかな? ……。ま、明日は我が身だけどね」
 いをりさんは軽く身震いすると「ね?」と同意を求めるように僕の目を覗き込んできた。
「本当にそうですね。僕も肝に銘じておきます」
「そうしなー。菱沼くん今人気じゃん? 妬みや嫉みが増えてくる頃だからさ」
「ですね」
 そんな話をしていると生ビールが二つ運ばれてきた。冷えすぎているのかジョッキが凍って見える。
「とりあえずお互い無事で良かったよ。じゃあ菱沼くんの前途を祝して乾杯と行こうか」
「ありがとうございます」
 前途を祝して乾杯。ああ、この感じ。本当に久しぶりだ。
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