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第一章 水原雪乃の場合
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日が完全に沈んでしまうとお互いにシルエットぐらいしか見えなくなった。声と影。それが小さな水面に揺れている。
「あーあ、明日も会社か……。嫌だなぁ」
そんな愚痴がふとした拍子にこぼれる。
「だよなぁ。分かるよ。その気持ち」
「うん」
ラッコに共感して貰えた。不思議と人間に共感されるよりほっこりする。
「もし行きたくないならたまにはサボってもいいんじゃないか?」
「まぁねぇ。でもそうもいかないんだよ。休んだら後で何言われるか……」
「そっか」
ああ、嫌だ。ラッコさんになんて話をしているのだろう。これじゃあ、お酒を飲みながら上司の愚痴を言うあの人たちと一緒じゃないか。
「なぁ雪乃。僕の考えだと楽しくないことは続かないと思うんだ」
私が押し黙っているとラッコさんが優しい口調で語り始めた。
「うん」
「そりゃあ人間はお金がないと大変だとは思うよ。その他にも君たちの世界には世間体とかってやつもあるみたいだしね……。でもね。それよりなにより、楽しくて元気なのが一番なんじゃないかな。もし雪乃にとって仕事が嫌だったら辞めればいいと思うよ」
ラッコさんは私の顔を覗き込んでいるのだろう。彼のつぶらな瞳が暗闇に光る。
「うーん……。そうなんだよね。正直、今の仕事はあんまり楽しくはないかな」
楽しくない。面白くない。そんな本当の気持ちが胸の中心からこみ上げてくる。
きっと私は昔から普通ではなかったのだ。正常か異常かで言えば異常。
そんなだからたまに今まで生きてこれた自分を無性に褒めたくなる。
『社会不適合なのに頑張ったね。偉いね。明日もきっと何とかなるよ』と。
ただ……。悲しいことに私は完全な異常者には成りきれなかった。実に中途半端なのだ。例えるなら……。割と早く木登りができるナマケモノ。ナマケモノ以上人間未満の半端者。そんな感じ。(こんなこと言うとラッコさんに「ナマケモノだって頑張ってるんだ!」と怒られそうだけれど)
「ねえラッコさん……」
「なんだい?」
「私……。もう疲れちゃったよ」
疲れた。そう言葉にすると急に涙があふれ出した。久しぶりの涙だ。中学一年生のときに泣いて以来の。
「雪乃。明日の仕事は休みな。なぁに、休んだってこの世が終わるわけじゃあないんだからさ」
「うん」
ああ、ダメだ。気持ちのダムが崩れてしまった。これじゃあどうしようもない――。
きっと私は知らないうちに限界に達していたのだと思う。中学時代に同級生からいじめられていたときみたいに、今もただただ耐え忍んでいたのだ。
あのときもそうだった。ラッコさんがこうして逃げるために背中を押してくれた。
『逃げて怒られるのは人間だけだよ。本当に人間は変わった生き物だよね。僕だってシャチに会ったら絶対に逃げるのに』
彼は行き場のない中学生の私にそんな言葉を掛けてくれた。
逃げたっていい。何も恥じることなど無い。逃げるのを責めるのは逃げられたら困る奴だけなのだから。と。彼は再び教えてくれた。
ああ、ラッコさんだ。私の大切なお友達。毛むくじゃらでちょっと哲学的な水生哺乳類。 終
「あーあ、明日も会社か……。嫌だなぁ」
そんな愚痴がふとした拍子にこぼれる。
「だよなぁ。分かるよ。その気持ち」
「うん」
ラッコに共感して貰えた。不思議と人間に共感されるよりほっこりする。
「もし行きたくないならたまにはサボってもいいんじゃないか?」
「まぁねぇ。でもそうもいかないんだよ。休んだら後で何言われるか……」
「そっか」
ああ、嫌だ。ラッコさんになんて話をしているのだろう。これじゃあ、お酒を飲みながら上司の愚痴を言うあの人たちと一緒じゃないか。
「なぁ雪乃。僕の考えだと楽しくないことは続かないと思うんだ」
私が押し黙っているとラッコさんが優しい口調で語り始めた。
「うん」
「そりゃあ人間はお金がないと大変だとは思うよ。その他にも君たちの世界には世間体とかってやつもあるみたいだしね……。でもね。それよりなにより、楽しくて元気なのが一番なんじゃないかな。もし雪乃にとって仕事が嫌だったら辞めればいいと思うよ」
ラッコさんは私の顔を覗き込んでいるのだろう。彼のつぶらな瞳が暗闇に光る。
「うーん……。そうなんだよね。正直、今の仕事はあんまり楽しくはないかな」
楽しくない。面白くない。そんな本当の気持ちが胸の中心からこみ上げてくる。
きっと私は昔から普通ではなかったのだ。正常か異常かで言えば異常。
そんなだからたまに今まで生きてこれた自分を無性に褒めたくなる。
『社会不適合なのに頑張ったね。偉いね。明日もきっと何とかなるよ』と。
ただ……。悲しいことに私は完全な異常者には成りきれなかった。実に中途半端なのだ。例えるなら……。割と早く木登りができるナマケモノ。ナマケモノ以上人間未満の半端者。そんな感じ。(こんなこと言うとラッコさんに「ナマケモノだって頑張ってるんだ!」と怒られそうだけれど)
「ねえラッコさん……」
「なんだい?」
「私……。もう疲れちゃったよ」
疲れた。そう言葉にすると急に涙があふれ出した。久しぶりの涙だ。中学一年生のときに泣いて以来の。
「雪乃。明日の仕事は休みな。なぁに、休んだってこの世が終わるわけじゃあないんだからさ」
「うん」
ああ、ダメだ。気持ちのダムが崩れてしまった。これじゃあどうしようもない――。
きっと私は知らないうちに限界に達していたのだと思う。中学時代に同級生からいじめられていたときみたいに、今もただただ耐え忍んでいたのだ。
あのときもそうだった。ラッコさんがこうして逃げるために背中を押してくれた。
『逃げて怒られるのは人間だけだよ。本当に人間は変わった生き物だよね。僕だってシャチに会ったら絶対に逃げるのに』
彼は行き場のない中学生の私にそんな言葉を掛けてくれた。
逃げたっていい。何も恥じることなど無い。逃げるのを責めるのは逃げられたら困る奴だけなのだから。と。彼は再び教えてくれた。
ああ、ラッコさんだ。私の大切なお友達。毛むくじゃらでちょっと哲学的な水生哺乳類。 終
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