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第一章 水原雪乃の場合

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「ただいま」
 自宅のドアを開けて独り言のように呟いた。
 肩からバッグを下ろしてベッドの横に投げる。スーツを脱いでハンガーに掛ける。脱いだストッキングを洗濯機に放り込む。そんな日常の動作を自動的に行う。
 スウェットのルームウェアに着替えてすぐにメイクを落とした。晩ご飯の前に完全にオフモードにするのが私の日課なのだ。電源を切る。ただの干物になる。
 メイクが綺麗に剥がれると荒れた肌が姿を現した。ストレスと暴飲暴食の影響が出ているらしい。インスタントな食事とアルコール強めの安い缶チューハイは確実に私の命を削っているようだ。まぁいい。削るは削るでも研磨ってことにしておこう。そう思っておかないとやってはいられない。
 朝起きて、トイレに籠城し、野菜中心の朝食を食べ、軽めのストレッチをしてからメイクをして、朝の天気予報と星座占いを見る。
 そんな朝のルーティンが水泡に帰すぐらい不健康な夜を私は過ごしている。真夜中は私をイケナイところに連れて行くのだ。ネットの海。人気配信者の生配信。
 不健康だという自覚はあるのだ。自覚はあるけれど止める気はさらさらない。そんな感じ。
『みんなこんばんわー』
 配信者の声がスマホのスピーカーから聞こえる。私の数少ない癒やし。生活に潤いを与えてくれる存在だ。
 私はスマホで配信をたれ流しながら台所で夕ご飯の準備を始めた。今日はパスタにしよう。お湯を沸かして茹でるだけのインスタントな夕食。
『マジで最近FPSハマっててさぁ。みんなはやってる?』
 配信者は画面越しの私たちに質問を投げかけた。視聴者数は三五〇〇〇人。読めないスピードでコメントが流れていく。私も鍋を横目に『やったこなーい!』とコメントした。まぁ当然のようにコメントはスルーされたけれど。
 いつも視聴者が三万人以上居る配信だからか、リスナーは皆必死だった。私も課金アイテムをそうとう投げている。(リアルマネーで一〇万以上は課金しているはずだ)
 配信を聴きながら沸騰した鍋にパスタを投入する。乾麺があっと今にシナシナになっていった。これだからパスタは好きだ。楽だし美味しいし安い。一人暮らしの味方だと思う。
 パスタが茹で上がると湯切りをして皿に盛り付けた。そしてそこにペペロンチーノの素を振りかけた。それだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
 それから私は熱々のパスタとインスタントなコンソメスープを両手に抱えながら自室のテーブルに向かった。当たり前のようにスマホは脇に挟む。食事と配信は私にとって両方大事なのだ。
『お、ヤマダさんギフトありがとー! すっちんも紅茶ありがとうねー』
 配信者は飛んできた課金アイテムを読み上げていた。課金アイテムは彼の財布に入る現金。そう思うと妙に嬉しい気持ちになる。まぁ今月は家計がピンチなのであまり課金出来ていないのだけれど……。
 ラッコさんとの世間話と配信が今の私にとっては大切なものだった。これがあるから会社で上司に嫌みを言われても、家族に金の無心をされても笑って許せるのだ。
 きっと私みたいな生き方をしている人は世間にごまんといるだろう。いや、今やそういう人種のほうがマジョリティーかもしれない。だからこんな生き方が悪いなんて今は誰も言えないはずだ。多数決で過半数取った方が正義。人間社会ではそうなのだから。
 ラッコさんは多数決が嫌いらしいけれど多数決にも利点はあるのだ。多数派になる。そうすれば安心と安定が手に入る。そんな利点が。
 パスタを頬張りながらラッコさんが振ってくれた前足を思い出した。あの柔らかそうな肉球と短い前足を。
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