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DISK1

第十八話 砕けた硝子

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 ウラは虚ろな瞳で虚空を見つめた。

 すっかり生気を失ってしまったように見える。

「……。それでさぁ、私もさすがに疲れちゃったんだ……」

「お前の恋愛に対してどうこう言うつもりはねーけど、ちったー考えた方がいいぞ!?  不倫じゃねーかよ!!」

「そだよね……。不倫だよね……。私は馬鹿な女だよ。最初に知ってればこんなことしなかったんだけどね」

 ウラはそう言うと、キッチンシンクに置いてあるウィンストンを手に取った。

「これ瀬田さんのタバコなんだー。実は私が入院する前に1回家に来てね。あの人いつも帰りがけに何か忘れ物してくんだよね。まるで自分の縄張りにマーキングするみたいにね」

「そのタバコ……。そいつのだったのか……」

 ウラは辛そうにシンクにもたれ掛かるとゆっくりとした口調で再び話し始めた。


 瀬田さんが既婚者だと知っても私は彼から離れられなくなっていた。

 まるでアリジゴクに嵌る蟻のようにもがけばもがくほど沈んでいく。

 恋心なのか甘えなのか打算なのか……。

 それさえ判断できないほど私は追い込まれていた。

 月子さんも全国ツアーが終わってからは、前にも増して私をこき使うようになった。

 正直、私は何を拠り所に生きればいいのかすっかり見失ってしまっていた。

 必死に働いて、家に帰ると涙が止まらなくなる日が増えていった。

 誰に話すわけでもない。

 ただひたすら無駄に水分を目から流す。

 体が砂漠に飲まれるほど泣いた。

 そんな日々の中でも瀬田さんは相も変わらず私の家にやってきた。

「ただいまー」

 彼はまるで自宅にでも戻ってきたように私の家にあがった。

 お前んちじゃねーよ。

「おかえりなさい」

 私は心にもない言葉で彼を迎え入れた。

 彼は私の部屋に入るとダイニングテーブルの換気扇を回してタバコを吸い始めた。

「ウラちゃん最近疲れてそうだけど大丈夫ー? 無理しすぎな気がするけど?」

「うん……。ちょっと疲れ溜まってるかなー。でもいつものことだし大丈夫だよ!」

 私は自分の状態とは裏腹に笑顔を作りながら彼にそう答えた。

「ならいいけどさ! 無理は良くないからねー」

 私たちはそんな他愛のない話をした後、例によって行為に及んだ。

 彼と身体を絡ませながらも私は冷めきっていた。

 彼は荒い息遣いで私を抱きしめる。

 AVの見過ぎなのか行為は恐ろしく激しい。

 お世辞にも彼と私は身体の相性が良いとは言えなかった。

 瀬田さん自身はどうだかわからないけど、私はどうもしっくりこない。

 まるでSG以外のギターを無理やり弾かされているように私は彼とセックスをしていた。

 苦痛ではない。だが気持ちよくもない。

「本当にお前は可愛いなぁ」

 瀬田さんは私を抱きながら、私の髪を撫でた。

「そう……。ありがとう」

「なぁウラちゃん! 俺のこと好きか?」

「……。好きだよ……」

 私がそう答えると彼は機嫌良さげな表情で力強く私を抱き寄せた。

 行為が終わると、彼はキッチンシンクで煙草を1本吸い、すぐに帰っていった。

 そう、彼には帰る場所があり、帰りを待つ伴侶と子供がいる。

 彼が帰ってしまうと、私は世界の片隅に取り残された小石のように部屋の片隅に座りこんだ。

 部屋の空気はまるで蜜のように私のボロボロになった身体に纏わりつく。

 その気だるい空気は私の生気を奪い、立ち上がることさえ酷く面倒くさく思わせた。

 そんな毎日を送りながら、私は自身が鉋で削られるようにすり減っていくのを感じていた。

 削りすぎてもう鉋屑のようだ。

月子さんはいつも通り酷かったし、他の『アフロディーテ』のメンバーも機嫌が悪い日が多かった。

 瀬田さんはメンバーに調子を合わせて上手くやっているようだ。

 彼はそう言った意味ではかなり器用な人間だったのだ。

 バンド活動で着実な成果を上げつつ、家庭をきちんと守り、業界内でも評価の高いギタリスト……。瀬田さんに対する周りの評価はそんな感じだ。

 でも実際の彼を近くで見ているとそうではない面が目に付くようになった。

 彼は自身の評価を守るために利用できるものは最大限利用したし、嫌なことや不快なことがあるとそれを私に当たり散らした。

 瀬田龍大は鴨川月子とは違った意味で私を捕らえて離さない人間だった。

 私は蜘蛛の巣に張り付いた蝶のように、アリジゴクに落ちた蟻のように……。

 ただひたすらにもがくことしか出来ない。

 本当に馬鹿みたい……。いや、みたいじゃない。ただの馬鹿だ。


 そこまで話したウラの頬には涙の線がはっきりと滲んでいた。

 彼女の涙が部屋の照明に照らされて光っている。

「あのよー。はっきり言うけど、そんな関係続けるべきじゃねーよ! ただでさえ、あんな面倒くさい女にこき使われてんのに、お前に当たり散らす男が居たんじゃ耐えらんねーだろ!?」

 俺の言葉にウラは激しく首を横に振って絶叫するように顔を覆った。

「分かってるよ!! そんなこと言われなくたって分かってる! でも離れらんないんだよ! 月子さんも私にとっては大事だし、瀬田さんだって大事なんだ!」

 ウラは嗚咽するようにシンクにもたれ掛かった。

 本当に彼女らしくなかった。

 地元に居た頃のウラはもっと自己中で勝手でノリが良くて、人様に迷惑をかけることなどまったく気にしない女だった。

 俺はウラをそんな風にしてしまった2人に対して激しい怒りを覚えた。

 怒りを通り越して殺意と言ってもいいかもしれない。

 ウラが落ち着くまで俺は彼女の横に寄り添っていた。

 彼女は声を上げながら泣き続け、時折断片的に言葉を発した。

 30分ほど経っただろうか?

 ウラは少し落ち着きを取り戻し、再び話し始めた……。


 結局、私は自分が我慢するという形で現状を維持することにした。

 月子さんのことは幸い他のバンドメンバーもフォローしてくれたので何とかなった。

 問題は瀬田さんの方だった……。

 彼は相変わらず否定期的に私の家に訪れては、性欲処理をして帰るという生活を送っていた。

 私は無償で性行為を提供するデリヘル譲にでもなった気分だった。

 むしろ、金銭が発生しない分だけ私の方が待遇が悪い気がする。

「ウラちゃんさー。最近冷たくない? 前はもっとノリ良くやってくれたのに最近なんかあっさりだよねー」

 瀬田さんはズボンを履きながらそう言うと、定位置に行ってタバコを吸い始めた。

「ごめん瀬田さん。マジで最近しんどいんだ」

「そっかー。まぁテレビでも見て元気だしなよ! 笑うとスッキリするよ!」

 瀬田さんはそう言うと、リビングのテレビをつけてバラエティ番組を見るように私に促した。

 私はもうウンザリしていたけれど、余計なことを言う気力さえなかったから黙ってバラエティを見始めた。

 それにしても気乗りしないときに見るバラエティ番組がここまで苦痛なものだとは思わなかった。

 芸人たちは面白可笑しくトークをしているけど、その笑い声さえ酷く耳障りに聞こえた。

「ハハハ、ほらウラちゃんあいつらすげーウケる!」

 瀬田さんは笑いながら私の肩を抱いた。

 マジやめてよ。クソ面倒くさい!!

「そうね……」

 私がそっけない態度で返すと瀬田さんの表情が一気に変わった。

「マジお前何なの!? さっきからさー。調子悪いのは分かるけど、笑うとかすればいいじゃん!?」

 本当にやめてほしい。ヤリに来たときさえ私に当たり散らすのはマジ勘弁。

「……。……って……」

 私は声にならない声を出した。

「あ!? 何だよ!?」

「出てって!! 今日はもう帰って!! 悪いけど今日は本当に無理!!」

 私は叫ぶようにそう言って彼を部屋から追い出した。もう耐えられない。

 部屋から追い出された彼はしばらくドアを叩いていた。

 インターホンも連打された。それでも私は彼を家には入れなかった。

 私はただ耳を塞ぎながら冷たいフローリングにへたり込んで今までにないほど大量の涙を流した。

 しばらくすると彼は諦めたのか、ドアを叩く音もインターホンも止んだ。

 静寂が訪れた部屋の中で、私はまた酷く孤独な気持ちになった。

 その孤独は刃物さえあれば手首を掻っ切りたくなるほどの孤独だった。

 どうやら私は擦り減るどころか既に砕けてしまっていたようだ。

 砕けた硝子のように地面に散らばり、近づく人間を傷つけるだけの存在になってしまった。

 そんな気持ちだった。最悪だ――。

 翌日、仕事で普通に職場に行くと瀬田さんが普通に居た。昨日のことが嘘のように普通だった。普通なことがイカレテいる気がするほどの普通さだった。

 イマワタシナンカイ「普通」ッテイッタ?

 でも、実際それからが酷かった。

 陰湿な嫌がらせや省きを受ける羽目になったし、表面的には穏やかそうな彼も相当頭にきているようだった。

 彼は自分の自尊心を損なう女が許せないのだろうと思う。

 私を自分のプライドを補強するための材料程度にしか思っていなかったのだろう。

 決して私を愛してなどいなかったのだ。

 自分でも不思議だけど砕けた心でも元気を装うことは出来た。

 笑顔で走り回ったり、怒られても気にしないフリをするのは何てことない気がした。

 でも本当はもう限界だったんだと思う……。

 だから私は……。


 ウラはすっかり落ち着きを取り戻していた。

 泣き腫らしてはいたけれど、表情は以前のウラのように穏やかなものになっている。

「それからは色々あったんだー。母方の実家からは連絡来るし、親父は死んじゃったしね。その上、この前のライブんときは失敗までしちゃった。本当に大志にもジュンにも迷惑かけて申し訳ないんだけどさ……」

「お前マジで災難続きだな……。つーかもっと早く言えよ! 俺だってジュンだってお前が困ってるなら助けるつもりなんだしよ……」

 俺はそこまで話してこの前、ジュンに言われた言葉を思い出した。

 話される前に察しなければいけなかったのだ。

「そうだよね……。本当にそうだ……。気が付いたら私たち距離ができてたのかもねー。長い付き合いなのに笑っちゃうけどさ」

「なあウラ? 俺は今でもお前と一緒にメジャーデビュー目指してるんだよ。仕事しながらだから本当に迷惑かけてっけどよ。だからお前には元気で居てほしいんだ。お前は自己中で勝手でやりたことはやる女のはずだろ? 強要はできねーけど、『アフロディーテ』から離れた方が俺はいいと思う」

「……。ありがとう大志。今でもあの時の約束守ろうとしてくれてるなんて嬉しいよ。でもさ……。月子さんたちのサポートがないとウチらきついと思うんだよな……。仮に私が血反吐吐いても彼らのサポートを受ける価値はあると思うんだ。だからさ……」

「バーカ! 仮に『アフロディーテ』が居なくたって俺らならどうにかなるって! つーか俺がどうにかしてやる! だから無理すんなよ! お前はお前らしくしてりゃいいんだ!」

 俺がそう言うとウラは俺の胸に顔を埋めた。

「虚勢でも嬉しいよ大志。ありがとう……」

「虚勢じゃねーよ! じゃあ改めて約束してやる!」

 俺はウラの肩を抱いて彼女の眼を見ながら息を大きく吸った。

「俺は京極裏月を必ずメジャーデビューさせる! 何があってもだ! あの年増女が邪魔しよーが、その瀬田とかいう陰湿野郎がなんて言おうが関係ねー! 絶対に約束の期限までにメジャーデビューさせてやるから!!」

 俺がそう言うと、ウラは何も言わずに俺の言葉を噛みしめるように肯いていた。

 ウラの血のにじむような……。いや、血を垂れ流すような努力を踏みにじった奴らに反撃する時が来たんだと俺は思った。

「もういいよね?」

 ウラはそう言うと、キッチンシンクに置いてあった瀬田のウィンストンを手に取って握りつぶしてゴミ箱に投げ入れた。
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