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かぐや姫は月に帰りました 前編

聖子 四面秦歌

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 早いものでヒカリ君を預かって一ヶ月が経ってしまった。
 あれほど反対していた父もすっかりヒカリ君を可愛がっている。
 実家にヒカリ君はすっかり馴染んでしまったらしい。
 喜んで良いのか悪いのか……。
「まーた、玩具買ったの!?」
「いや、なんだ……。知育玩具が良いって聞いたから……」
 やれやれだ。
 すっかり自分の孫のように扱っている。
「別に良いけど、ヒカリ君は預かってるだけなんだからさー」
 ま、これも嬉しい悲鳴かもしれない……。
 いっその事ウチで引き取ってしまった方が穏便な気さえする。

 京極大輔の事件は振り出しに戻っていた。
 伊瀬さんも加瀬さんもすっかりやる気を削がれている。
「このまま迷宮入りっすかね……。毒殺の可能性も捨てきれないけど、単純に自殺なのかなー」
「さーてな……。もうわからん!」
 本当に困った。
 被害者の交友関係が謎すぎる。
「あの……。伊瀬さん……。今担当してる暴力団絡みの案件どうなんすか?」
「あー! 今からちょっとその事で出かけるよ……。お前も来い!」
「はーい!」
 京極大輔の事はともかく、他の案件も片付けなくてはいけない……。

 その日は酷い曇天だった。
 日の光など一切見えない曇り空だ。
「手荒な事はしねーけどなんかあったら困るから今回お前は車で待機なー」
「了解っす! 怪我しないでくださいね」
 伊瀬さんは「ああ」とだけ言ってそのまま車を走らせた。

 現地に着くと伊瀬さんは私を残してその建物の中へ入っていった。
 その建物は巨大なブラックボックスのような見た目をしている。
 黒いプレハブで窓にもスモークが入っていた。
 建物の前には黒塗りのアルファードが二台とメルセデスのSクラスが停まっていた。
 伊瀬さんには黒い人脈がある。
 これは署では公然の事実だった。
 反社会勢力の人間と伊瀬さんは仲が良いのだ。
 今回もそんな人たちから情報を貰いに来た訳だ。
 私もこうやって伊瀬さんに付き合ってヤーさんの事務所に来る事がたまにあった。
 その度待たされる。
 いっその事、蜂の巣にでもなってくりゃ良いのに……。
 そんな非道徳的な事さえ考えるほど毎回待たされたのだ。

 でもその日は少し様子が違った。
 いつもならどんなに待たされても二時間ぐらいで戻る伊瀬さんが四時間以上帰ってこない。
 いくら何でもおかしい……。
 私は車を降りると事務所の入り口を覗いてみた。
 残念ながらスモークガラスになっていて中の様子を伺う事は出来ない。
 まさか……。
 私は最悪の事態を想定した。
 だとするなら署に応援要請しなければならない。
 念のために伊瀬さんの携帯に連絡してみた。
 呼び出し音が数回鳴ったがすぐに切れてしまう。
 本当にヤバイ……。
 緊急事態だ……。

 署に応援要請して腕っ節の強い刑事を数人寄越して貰った。
 早く……。早くしないと……。
 応援が来るまでの時間が恐ろしく長く感じた。
 二○秒ぐらいごとに時計を見てはため息が溢れてしまう。

 一○分くらい経っただろうか?
 応援の刑事が五人来てくれた。
「大丈夫か泉さん!?」
「私はいいっす! そんな事より伊瀬さんを!」
 刑事たちは厳戒態勢で事務所の扉を取り囲み、そして中へと入った――。

 現場で見た物は想像のはるか斜め上だった。
 ある程度覚悟していたがそんなモノは簡単に飛び越えるくらいの惨劇が私の目の前に広がったのだ。
 そこには伊瀬さんだったと思われるモノが転がっていたのだ。
 血の海なんていう表現があるけれど、その液体は海より沼に近い気がする。
「伊瀬さん!」
「なんだてめぇーらこのー」
 そこからは酷い有様だった。
 血の沼の横で男同士が激しく乱闘をする。
 そこに転がっているそれが生きているのか死んでいるのか判別が付かない。
 穴という穴から血が噴き出している。
 一昨日に下ろしたてだと言っていたワイシャツも既に元の色が分からないくらい血に染まっていた……。
 私はあまりにも非現実な光景にただそこに立ち尽くす事しか出来なかった。

 暴力団員が連行されるのを横目に見ながら私はただ呆然としていた。
 悲しいとか悔しいという感情は湧いてこない。
「泉さん! 大丈夫か!?」
 加瀬さんに声を掛けられたけれど「はい……」と適当な返事しか返せなかった。

 本当に蜂の巣のようになった彼を私は黙って眺める事しか出来なかった――。
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