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ウサギとカメのデットヒート

月姫 ウサギとカメのデットヒート⑦

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 サインを貰った私たちは美術館内のカフェへと向かった。
 カフェは先ほど見た西洋庭園が見渡せるようにガラス張りになっている。
 木陰にヘカテー像の後ろ姿も見る事が出来た。
「ウフフ……。サイン貰っちゃったねー」
 里奈さんは嬉しそうにサインして貰った絵本を開いた。
 人懐っこい笑顔を浮かべている。
 私たちが席に着くと店員が注文を取りに来たので紅茶とコーヒーを注文した。
「ほんとですねー。運が良かったですー。私もまさかこの本に出会えるとは思っていなかったので……」
 『月の女神と夜の女王』の表紙を捲ると、さっき書いて貰ったサインが目に入った。
 達筆な字で『樋山涼花』と書かれ、その横に『京極月姫様へ』と小さく書き込まれている。
 達筆だけれどその字はすごく柔らかで樋口さんの人柄が表れているようだ
「そういえばさー。ルナちゃん、さっき作者さんとお話してたけどなんかあったの?」
「それが私にも分からないんですよねー。何が何やら……」
 サイン中の樋山さんは明らかに動揺していた。
 なぜあんなに驚いた顔をしていたのだろう?
 私には全く心当たりがなかった。
 もしかしたらどこかで会った事があるのだろうか……。
 少しすると店員がコーヒーと紅茶を運んで来てくれた。
 里奈さんは丁寧にお辞儀をしながらコーヒーを受け取る。
 彼女は立ちこめる香りを楽しむように味わっていた。
 私も紅茶を受け取って息を吹きかけてから静かに一口啜る。
「今日は疲れたねー! ルナちゃんも疲れたでしょ? 市内に住んでる私だって疲れたんだもん」
「そうですね……。正直すごく疲れちゃいました。今日帰ったらすぐ寝ちゃいそうです」
「ゆっくり休みなー。ウラちゃんから聞いてるけどルナちゃん頑張り屋さんみたいだからね! たまには休まないと疲れちゃうよー」
 どうやら姉は私の事を里奈さんによく話しているようだ。
 まぁ、考えてみれば当然かもしれない。
 私は姉と里奈さんにとって数少ない共通の友人な訳だし……。
 里奈さんと話していると自然と姉の話題になった。
 彼女が姉の事を大好きだというのが伝わってくる。
「もー、こんなにお姉と仲良しじゃ隠し事とか出来ないじゃないですか!」
「ハハハ、そうだよー。ウラちゃんと私の間には友情では計り知れない何かがあるんだからね!」
 里奈さんの笑顔は本当に素敵だ。
 姉の気持ちも分からなくもない。
 冗談なのか本気なのか、姉はもし結婚するなら里奈さんみたいなタイプが良いらしい。
 女の子同士じゃないかというツッコミは入れなかったけれど……。
 ガラス越しに見える西洋庭園は穏やかな日差しに包まれていた。
 残念な事に芝生は冬らしく萎れている。
 それでも彫刻たちは止まった時間の中を楽しむようにその庭に佇んでいた。

「あの……。キョウゴク……。ルナ……さん?」
 いきなり男の人に声を掛けられた。
 一瞬空耳かと思ったけれど、どうやら違うらしい。
「え? あ、はい!」
 私は声のした方向に身体を向けた。
 そこにはサイン会で樋山さんの横に居た男性が緊張した様子で立っていた。
「あ! え……とですね……。ちょっとだけお時間よろしいですか?」
「はい……。なんでしょうか?」
 正直に言おう。
 私は不信感たっぷりな言い方をしてしまった。
 見ず知らずの男性に声を掛けられる事に慣れて居ないのだ。
 毎回、不必要に威圧的な言い方をしてしまう。
 私のそんな反応を見て彼はかなり引きつった顔をした。
 どうやらこの人もコミュニケーションに難有りのようだ。
「実は……。ウチの樋山が京極さんとお話ししたいそうなんです! 急にこんな事言われて気分悪くされたかもしれませんね。すいません」
 彼はそう言いながら冷や汗を流している。
 こちらが心配になるくらい頼りない人だ。
「大丈夫ですよ? 白石さんでしたっけか? そんなに緊張しないでも……」
「えっ? なんで僕の名前を!?」
「いや……。だってさっき樋山さんがそう呼んでたじゃないですか……」
 白石さんは「あ、そうか」とあたふたしながら言うと、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。
 私は里奈さんに待って貰って彼に着いて行く事にした。
 樋山さんはバックヤードの控え室に居るらしい。
 彼に案内され、『STAFF ONLY』と書かれたドアから美術館のバックヤードに入る。
 バックヤードの通路には掃除用具と展示に使う什器が無造作に積まれていた。
 私たちはそんな雑然とした通路を進んで行った。
「こ、ここです」
「あの……。白石さん……。なにもそんなに緊張しないでも……」
「あ、はい! すいません。ごめんなさい!」
「いや、だから……。まぁいいです! 入ってもいいですか?」
 私がそう言うと白石さんは慌てた様子で控え室のドアを開いた。
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