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ウサギとカメのデットヒート

聖子 漁夫の損益分岐点

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 私は自分のデスクに戻ると菖蒲さんから預かった封筒を開いた。
 封筒の中の書類は丁寧にクリップ留めされていた。
 彼女の几帳面さを感じ取る事が出来る。
 菖蒲さんの調査報告は信憑性が高いと思う。
 信頼度の高さは資料の構成から伺い知る事が出来た。
 菖蒲さんの資料によると彼女のアパートの名義は別の人間のらしい。
 理由は不明だけれど彼女は世間から身を隠すように他人名義で部屋を借りていたようだ。
  資料には他にも彼女に関する個人情報がびっしりと書き込まれている。
 仕事、親戚、交友関係まで……。
 残念な事に仕事以外での人間関係はあまりないらしい。
 彼女は旭市内のスナックで働いていたようだ。
 資料によると一ヶ月くらい前から職場と音信不通らしいが……。
 紙面で見る彼女の印象ははっきり言って最悪だった。
 歌舞伎町のキャバクラ嬢の方がマシな生活を送っている気がする。
 私は貰った資料から必要な情報だけ抜き出して伊瀬さんに連絡した。
『泉さんー。何回か行ったんだけど、葛原さんいねーんだよなー』
「そうですか……。じゃあまた日を改めるしかないっすね」
 電話から聞こえてくる伊瀬さんの声は不機嫌そうだった。
 この男は自分の思い通りに行かないといつもこうなる。
『明日出直しだな……。でも俺、明日は用事あるから代わりに泉さん行ってくんない?』
「了解です……。つーか私一人っすか?」
『いや……。念のため一人付けるよ……。加瀬君にも行って貰うけどいいか?』
「わかりました……。じゃあ明日、加瀬さんと一緒に行きます!」
 上司命令だから仕方がない。
 本当は加瀬さんと一緒なんて御免被るけれど……。
 私は平静を装いながら電話を切った。
 何はともあれルナちゃんの父親の事件は進展しそうだ。
 葛原みのりが彼を殺したかどうかは定かはではい。
 でも何かしら知ってはいるだろう――。
 翌日。私は加瀬さんと一緒に葛原みのりのアパートへ向かった。
「葛原さーん!」
 加瀬さんはぶっきらぼうな言い方でドアチャイムを連打する。
 返事はない。
 どうやら昨日に引き続き不在のようだ。
「居ないんすかね? また空振りかー」
「何お前他人事みたいに言ってんだよ!? ったくこれだから女は……」
 加瀬さんは嫌みったらしい言い方をすると、どこかへ電話を掛けに行ってしまった。
 予想通りではあるけれど最低野郎過ぎる。
 私は何となくアパートの周囲を回って見る事にした。
 アパートの下から二階を見上げると彼女の部屋の窓が見えた。
 窓はもう何年も開いてはいないようだ。びっしりと蔦が絡んでいる。
 アパート自体も相当年季が入っていた。
 お世辞にも素敵なお部屋とは呼べないだろう。
 それにしても加瀬さんはどこへ行ってしまったのだろう?
 電話を掛けに行ったっきり帰ってくる様子がない。
 加瀬さんは要領が良いのだ。
 これは悪い意味で要領が良い。
 相手を見てサボるかサボらないか決めている節がある。
 女の後輩が相手だからどこかでサボっているのだろう……。
 私は加瀬さんの事を諦めて近所で聞き込みをする事にした。
 運悪くアパートの住人たちは全員出かけているようだ。
 アパートの管理会社にも電話を掛けてみたが全く要領を得ない。
 周辺の民家で聞き込みもしたけれど、アパートの住人の顔をよく知らないようだ。
 恐るべき無関心。
 私は柄にも無く日本の将来が心配になった。
 警察官としては当然な気もするけれど……。
 諦めて彼女のアパートに戻る。
 やはり加瀬さんは戻って来ていない。
 私はアパートの手すりに持たれながらタバコに火を付けて時間を潰す事にした。
 もし、こんなところを伊瀬さんに見つかれば怒られるだろう。
 でも今日は実質独りぼっちなので問題がない。
 寒空の下でタバコを吹かしながらボーッとした時間を過ごす。
 こんな事なら自宅に戻って洗濯物を干してくれば良かった。
 本当に無駄な時間だ……。
 帰りたい……。

『コトン』

 タバコを吹かしながら時間を持て余していると、彼女の部屋から微かな音が聞こえた。
 気のせいかと思いながらもドアに近づく。
 耳を澄ますと微かに人が動くような気配がする。
「葛原さーん! いらっしゃいますかー?」
 私はもう一度ドア越しに声を掛けた。
 やはり返事はない。
「葛原さーん? 居るんですかー? 大丈……」
 そう言いかけた次の瞬間――。
 部屋から金属が床に落ちた時にする甲高い音が響き渡った。
 驚いた私は思わず後ろに仰け反る。
「大丈夫ですか!? 居るなら返事してください!?」
 やはり返事はない。
 私は意を決して強硬手段に出る事にした。
 ドラマなんかだとドアに体当たりして中に入る事が多いと思う。
 でも私には便利な特殊技能が備わっていた。
 古いタイプのドアぐらいならなんとかヘアピンで開けられる。
 本来こんな事すれば始末書物だけれど仕方が無い。
 彼女が部屋の中でどんな状態になっているのか確認しなければ。
 私は最悪の事態を想定する……。
 ピッキングは思いのほか簡単に成功した。
 鍵が開くカチャッという音が鳴る。
 私恐る恐るドアノブに手を伸ばすとそのドアをゆっくりと開いた。
 ドアを開けると室内からなんとも言えない悪臭が鼻を突いた。
 ゆっくりと室内に入ると玄関前に小さな人影が転がっているのが見えた。
 最初は人形のように見えたがどうやら違うらしい。
 小さい子供のようだ。
「大丈夫!?」
 玄関前の廊下に横たわっていたのは三歳くらいの男の子だった。
 私は男の子を抱き上げると彼の胸元に耳を当てた。
 息遣いはかなり弱々しく衰弱しきっている。
 幸いな事に外傷はない。
 私は男の子を抱えたまま廊下の奥へと進んで行った。
 部屋に入った時感じた腐臭は奥の部屋から漂ってきている……。

 奥の部屋を開けると予想通りの光景が広がっていた。
 私が警察官になってから何回か見た光景……。
 彼女は天井から一直線にぶら下がっていた。
 足下には踏み台にしたと思われる厚みのある本が散乱していた。
 死んでから数日は経過しているようだ。
 死んだ季節が幸いしたのか腐敗そこまで進んではいない……。
 私は首を横に振ると警察と救急に出動を要請した。
 また一つ死が増えてしまった……。
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