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神戸1995⑨
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病院の床が冷たい。手の甲から伝わる温度は身体の熱を確実に奪っていった。頭に巻かれた包帯から滲み出た血はカサカサに乾いている。
病院内でも余震は続いていた。そのたび天井から埃が降ってきた。窓硝子にはヒビが入り、そこから冷たい空気が吹き込む。余震のたび、病院内には緊張が走った。怪我人も両手で頭を庇うような姿をしていた。ひどい有様だ。
私はもう既に空になった点滴のパックを見上げた。それはあまりにも空虚にスタンドから吊されていた。普段なら看護士に話して点滴の管を抜いて貰うところだろう。でも今はそんな余裕はないと思う。おそらくはさっきと同じように「後にして!」と言われてしまうはずだ。この状況なので仕方がないけど。
仕方ない。みんな同じように死にかけているのだ。医療従事者も患者もみんな。
でも私だっていつまでもここでうずくまっているわけにはいかない。父のことも気になるし、弟の姿も見ていない。母も……。とまで考えて私は首を横に振った。母の顔は思い浮かばず、あの青白い手だけが浮かぶ。
私はあたりを見渡した。幸い、誰も私のことなど見ていない。私は意を決して点滴のチューブに貼ってあるテープを剥がして針を抜いた。腕にチクリと小さな痛みが伝わる。
これでやっと自由に動ける。身体は怪我らしい怪我はしていないし、これで家族を探しに行ける。私は点滴のスタンドを壁に押し当てるとそのまま病院から外に出た。
病院の駐車場はひび割れていた。周辺の民家の多くも崩れている。その光景を見て改めて現状がどれほど逼迫しているか理解した。私たち家族だけではないのだ。本当にみんな死にかけている。
日が傾く。空には無神経そうな太陽がいつも通り沈もうとしていた。これほど日常が歪んでしまったのに太陽は私たちなど全く気に掛けてはいないのだろう。
夜がすぐそこまで来ている。もうすぐ夕闇が街を包むだろう――。
私は夕闇に包まれた神戸の街を歩いた。停電しているのかほとんど明かりはない。空気は無慈悲なほど冷たく、私の肌を突き刺した。
遠くに炎が見えた。そして消防車のサイレンも聞こえる。私は坂の真ん中で座り込むとその炎を眺めた。その炎はとても綺麗で、見ているだけでしばらく何も考えずにいられた。指先は氷のように冷え切っていたけど、そんなこと関係ない。どうせ私には帰る場所もなくなってしまったし、帰りを待つ人もいなくなってしまった。
「お母ちゃん……」
私は火事を眺めながら呟く。でも涙は流れない。
全部燃えてしまえばいい。そんな風に思った。
どうせ私は月子に敵わないし、家もないし、母親も死んでしまった。だから全部燃えてしまえばいいのに。
私の思いとは裏腹にお腹から音が聞こえた。思い返せば、昨日の夕飯から何も食べていない。
私は立ち上がると再び歩き始めた。どうやらまだ身体は生きたがっているらしい。
病院内でも余震は続いていた。そのたび天井から埃が降ってきた。窓硝子にはヒビが入り、そこから冷たい空気が吹き込む。余震のたび、病院内には緊張が走った。怪我人も両手で頭を庇うような姿をしていた。ひどい有様だ。
私はもう既に空になった点滴のパックを見上げた。それはあまりにも空虚にスタンドから吊されていた。普段なら看護士に話して点滴の管を抜いて貰うところだろう。でも今はそんな余裕はないと思う。おそらくはさっきと同じように「後にして!」と言われてしまうはずだ。この状況なので仕方がないけど。
仕方ない。みんな同じように死にかけているのだ。医療従事者も患者もみんな。
でも私だっていつまでもここでうずくまっているわけにはいかない。父のことも気になるし、弟の姿も見ていない。母も……。とまで考えて私は首を横に振った。母の顔は思い浮かばず、あの青白い手だけが浮かぶ。
私はあたりを見渡した。幸い、誰も私のことなど見ていない。私は意を決して点滴のチューブに貼ってあるテープを剥がして針を抜いた。腕にチクリと小さな痛みが伝わる。
これでやっと自由に動ける。身体は怪我らしい怪我はしていないし、これで家族を探しに行ける。私は点滴のスタンドを壁に押し当てるとそのまま病院から外に出た。
病院の駐車場はひび割れていた。周辺の民家の多くも崩れている。その光景を見て改めて現状がどれほど逼迫しているか理解した。私たち家族だけではないのだ。本当にみんな死にかけている。
日が傾く。空には無神経そうな太陽がいつも通り沈もうとしていた。これほど日常が歪んでしまったのに太陽は私たちなど全く気に掛けてはいないのだろう。
夜がすぐそこまで来ている。もうすぐ夕闇が街を包むだろう――。
私は夕闇に包まれた神戸の街を歩いた。停電しているのかほとんど明かりはない。空気は無慈悲なほど冷たく、私の肌を突き刺した。
遠くに炎が見えた。そして消防車のサイレンも聞こえる。私は坂の真ん中で座り込むとその炎を眺めた。その炎はとても綺麗で、見ているだけでしばらく何も考えずにいられた。指先は氷のように冷え切っていたけど、そんなこと関係ない。どうせ私には帰る場所もなくなってしまったし、帰りを待つ人もいなくなってしまった。
「お母ちゃん……」
私は火事を眺めながら呟く。でも涙は流れない。
全部燃えてしまえばいい。そんな風に思った。
どうせ私は月子に敵わないし、家もないし、母親も死んでしまった。だから全部燃えてしまえばいいのに。
私の思いとは裏腹にお腹から音が聞こえた。思い返せば、昨日の夕飯から何も食べていない。
私は立ち上がると再び歩き始めた。どうやらまだ身体は生きたがっているらしい。
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