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神戸1995⑥
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血の匂いがする。鉄のような匂いだ。それは私の下腹部を生ぬるく濡らし、肌に嫌な感触を与えた。流血は父の体温を確実に奪っていった。父の息は次第に弱々しくなっていく。
「逢子……。気をしっかり持てな……。今に助け来るで」
「ああ……。お母ちゃんとコウタ大丈夫やろか……」
家が崩れ落ちてから母と弟の姿を見ていない。いや、正確には目の前にいる父の顔さえ確認できない。私の目には父の作業着と木片だけが映っていた。そう考えると私は急に怖くなった。母は無事だろうか? 浩太郎は? 怪我はしていないだろうか? 刹那にも充たない時間でそんなことを同時に考えた。
父の吐息が弱々しくなるたびに、父を押しつぶす木材の軋む音が聞こえた。ギシギシと。まるで死神の足音のように。
私はふと、『ああ、私はここで死ぬかもしれん』と思った。このまま父と一緒に家の下敷きになって死んでしまうのだと。きっと人間が潰れたらそれはそれは醜いだろう。トムとジェリーのようにコミカルなわけがない。骨は砕け、内臓は破裂し、痛みと共に意識を失うだろう。そこまで考えて私は後悔した。歯はガタガタ震え、指先に全く力が入らない。
血の匂いが濃くなる。下腹部に伝わる血の温度がまた上がり始めた。父を押さえつける死神が本気で殺しにきたようだ。
「お父ちゃん!? ほんまに大丈夫か?」
「う……。ああ、大丈夫や。心配いらん」
私は「うなわけあるかい!」と心の中だけでツッコミを入れた。大丈夫なわけがないのだ。この後に及んで娘に心配を掛けまいとする父が酷く滑稽で、同時に悲しく思えた。
ああ、神様。私が悪かったです。お願いですからお父ちゃんを助けて下さい。これからは我が儘も言いません。お母ちゃんの言いつけも守ります。弟の面倒もしっかり見ます。だからお願いします。私の家族を。私の大切な人たちを殺さないで。そんな祈りにも似た何かを願った。
私は父を殺そうとする死神に懇願した。この人は実直で真面目で優しい人だから殺さないであげて。殺すなら私のような愚か者を。
生まれて初めてこんなに神様に祈った。神社の神様に。仏壇の祖父母に。
そして……。私は再び意識を失っていった――。
意識が戻る。どうやら戻って来れたらしい。一瞬、あの世かと思ったけど、どうやらまだこの世にいるらしい。相変わらず父は苦しそうに呼吸している。時間はどれくらい経っただろうか?
隙間から日の光が差し込む。はっきりとは分からないけど、だいぶ時間が経ったようだ。瓦礫の隙間からは救急車の音が聞こえた。人の声も聞こえる。
「逢子ぉ。もう少しの辛抱やで! おぉーい! 誰かおるんかー!?」
父はどうにか絞り出した声で外に助けを求めた。私も同じように叫ぶ。
「おーい。中におるんか!? 今助けるからなー」
外から大人の声が返ってきた。声から察するに三〇代くらいの男の人の声だ。
「おぉーい! ここや! 頼む。助けてくれ!」
父はもう既に虫の息だった。それでも必死に声を振り絞る。私も精一杯、声を上げる。
次第にあたりは賑やかになってきた。どうやら助けが来てくれたらしい。ガヤガヤと騒がしい声と共に徐々に瓦礫がどかされていく。次第に外の光が差し込み、死神の足音は遠ざかって行った。
なんとか助かった……。私はそう思った。さっきまで無理をしていた父も安心したのかぐったりしている。
「大丈夫か!? 怪我しとるか?」
私と父に覆い被さっていた天井が退かされると三〇代前半ぐらいの男の人が顔を覗かせた。
「私は大丈夫や。それよりお父ちゃんが!」
「もう大丈夫や! おーい! みんな手ぇ貸してくれ」
助けに来てくれた人たちに抱えられ父は担ぎ上げられた。父の脇腹は赤黒い血がべっとりと付いている。
ようやく助かった。これで死なずに済んだ。私は神様に感謝した。しかし……。
「あんな! お母ちゃんと弟がまだ家ん中におんねん!」
私は助けてくれた男の人に縋った。
「分かったで! 今助ける!」
崩れ落ちた家の前で私は再び祈った。空を覆う薄暗い雲が私の気持ちに影を落としていた。
「逢子……。気をしっかり持てな……。今に助け来るで」
「ああ……。お母ちゃんとコウタ大丈夫やろか……」
家が崩れ落ちてから母と弟の姿を見ていない。いや、正確には目の前にいる父の顔さえ確認できない。私の目には父の作業着と木片だけが映っていた。そう考えると私は急に怖くなった。母は無事だろうか? 浩太郎は? 怪我はしていないだろうか? 刹那にも充たない時間でそんなことを同時に考えた。
父の吐息が弱々しくなるたびに、父を押しつぶす木材の軋む音が聞こえた。ギシギシと。まるで死神の足音のように。
私はふと、『ああ、私はここで死ぬかもしれん』と思った。このまま父と一緒に家の下敷きになって死んでしまうのだと。きっと人間が潰れたらそれはそれは醜いだろう。トムとジェリーのようにコミカルなわけがない。骨は砕け、内臓は破裂し、痛みと共に意識を失うだろう。そこまで考えて私は後悔した。歯はガタガタ震え、指先に全く力が入らない。
血の匂いが濃くなる。下腹部に伝わる血の温度がまた上がり始めた。父を押さえつける死神が本気で殺しにきたようだ。
「お父ちゃん!? ほんまに大丈夫か?」
「う……。ああ、大丈夫や。心配いらん」
私は「うなわけあるかい!」と心の中だけでツッコミを入れた。大丈夫なわけがないのだ。この後に及んで娘に心配を掛けまいとする父が酷く滑稽で、同時に悲しく思えた。
ああ、神様。私が悪かったです。お願いですからお父ちゃんを助けて下さい。これからは我が儘も言いません。お母ちゃんの言いつけも守ります。弟の面倒もしっかり見ます。だからお願いします。私の家族を。私の大切な人たちを殺さないで。そんな祈りにも似た何かを願った。
私は父を殺そうとする死神に懇願した。この人は実直で真面目で優しい人だから殺さないであげて。殺すなら私のような愚か者を。
生まれて初めてこんなに神様に祈った。神社の神様に。仏壇の祖父母に。
そして……。私は再び意識を失っていった――。
意識が戻る。どうやら戻って来れたらしい。一瞬、あの世かと思ったけど、どうやらまだこの世にいるらしい。相変わらず父は苦しそうに呼吸している。時間はどれくらい経っただろうか?
隙間から日の光が差し込む。はっきりとは分からないけど、だいぶ時間が経ったようだ。瓦礫の隙間からは救急車の音が聞こえた。人の声も聞こえる。
「逢子ぉ。もう少しの辛抱やで! おぉーい! 誰かおるんかー!?」
父はどうにか絞り出した声で外に助けを求めた。私も同じように叫ぶ。
「おーい。中におるんか!? 今助けるからなー」
外から大人の声が返ってきた。声から察するに三〇代くらいの男の人の声だ。
「おぉーい! ここや! 頼む。助けてくれ!」
父はもう既に虫の息だった。それでも必死に声を振り絞る。私も精一杯、声を上げる。
次第にあたりは賑やかになってきた。どうやら助けが来てくれたらしい。ガヤガヤと騒がしい声と共に徐々に瓦礫がどかされていく。次第に外の光が差し込み、死神の足音は遠ざかって行った。
なんとか助かった……。私はそう思った。さっきまで無理をしていた父も安心したのかぐったりしている。
「大丈夫か!? 怪我しとるか?」
私と父に覆い被さっていた天井が退かされると三〇代前半ぐらいの男の人が顔を覗かせた。
「私は大丈夫や。それよりお父ちゃんが!」
「もう大丈夫や! おーい! みんな手ぇ貸してくれ」
助けに来てくれた人たちに抱えられ父は担ぎ上げられた。父の脇腹は赤黒い血がべっとりと付いている。
ようやく助かった。これで死なずに済んだ。私は神様に感謝した。しかし……。
「あんな! お母ちゃんと弟がまだ家ん中におんねん!」
私は助けてくれた男の人に縋った。
「分かったで! 今助ける!」
崩れ落ちた家の前で私は再び祈った。空を覆う薄暗い雲が私の気持ちに影を落としていた。
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