35 / 63
第四章 京都1992
5
しおりを挟む
健次が栞の引っ越しを知ったのは七夕から数日後のことだ。
案の定、彼は酷く取り乱し、私のところへやってきた。
「月子ぉ! 栞が引っ越すらしいんやけど!」
「ああ、知っとるよ。栞のお父さんの仕事の都合やろ?」
「なんや、お前知っとったんか!? なんで教えてくれなかったんや?」
健次はまるで私が責めるような言い方をした。
「ごめんな……。栞が自分で言いたいらしかったから。ウチからは何も言えんかった……」
「……。そうか……。いや、俺も悪かった。ごめんな。お前にゆーてもしゃーないな……」
いつもなら売り言葉にで喧嘩になるだろう。
しかし、そのときはそうはならなかった。
健次だって辛いのだ。もしかしたら私より辛いかもしれない。
「なぁケンちゃん? こんなときに言うんは心苦しいんやけど……。これから栞とどうするん? ウチとしては遠距離でも付き合ってたほうがええと思うけど……」
私は一番聞きづらいことを彼に尋ねた。
「もちろん俺もそのつもりや! ただ……。栞はどうしたいんかな? 栞に辛い思いさせることにならんかな?」
当然、栞は辛い思いをするだろう。
このまま付き合っていようが、別れようが彼女が辛いのは変わらない。
「二人でよーく話おうたほうがええよ。それで二人が納得した形ならええんちゃう?」
「せやな……」
そのとき、私は自分が滑稽に思えた。滑稽すぎて道化のような気分だった。
健次にはそう言ったものの、私の本心はこの二人が別れることを望んでいた。
そうすれば、健次は私のところに戻ってくる……。
そんな邪な思考が頭を駆け巡っていた。
そのことは決して口にはしなかったけれど、きっと栞は薄々感じているはずだ。
あの子はそういう子だ。
悲しいくらい優しくて、酷いくらい思いやりがある。そんな子だから――。
七月は陰鬱な六月より残酷な季節だった。
私も健次も栞も何かから逃げるようにそれぞれ必死だった。
私は歌の練習に明け暮れたし、健次はバスケットボールに逃げ込んでいた。
栞は執筆に打ち込み、私とあまり顔を合わそうとはしなかった。
三者三様に逃げていたのだ。逃げたってどこにもたどり着けないというのに。
中途半端に退路があるのは良くないことだ。私はそう思う。
時間は善意も悪意もなく過ぎ去り、そこに残った物は努力による成果だけだった。
成果……。望まない努力の結晶。それだけだ。
気が付くと栞の引っ越しまであと一週間というところまで来ていた。
七夕の頃は控えめだった蝉の声も今はもう遠慮がない。
街路樹はウンザリするほど生い茂り、京都盆地の暑い夏を体現しているようだ。
祇園祭で賑わう京都市内には観光客が押し寄せていた。私の知ったことではないけれど……。
私たちは大きな代償を支払って大切なことを学んだのだと思う。
大切な。そして大人になるために必要な不都合な真実について。
時として逃げると取り返しがつかなくなる。覆水は決して盆には返らないのだ。
そんな教訓めいた何か。それを思い知らされた。
それを思い知らされたのは終業式の日だ。
私と健次は栞から呼び出しを受けた。
案の定、彼は酷く取り乱し、私のところへやってきた。
「月子ぉ! 栞が引っ越すらしいんやけど!」
「ああ、知っとるよ。栞のお父さんの仕事の都合やろ?」
「なんや、お前知っとったんか!? なんで教えてくれなかったんや?」
健次はまるで私が責めるような言い方をした。
「ごめんな……。栞が自分で言いたいらしかったから。ウチからは何も言えんかった……」
「……。そうか……。いや、俺も悪かった。ごめんな。お前にゆーてもしゃーないな……」
いつもなら売り言葉にで喧嘩になるだろう。
しかし、そのときはそうはならなかった。
健次だって辛いのだ。もしかしたら私より辛いかもしれない。
「なぁケンちゃん? こんなときに言うんは心苦しいんやけど……。これから栞とどうするん? ウチとしては遠距離でも付き合ってたほうがええと思うけど……」
私は一番聞きづらいことを彼に尋ねた。
「もちろん俺もそのつもりや! ただ……。栞はどうしたいんかな? 栞に辛い思いさせることにならんかな?」
当然、栞は辛い思いをするだろう。
このまま付き合っていようが、別れようが彼女が辛いのは変わらない。
「二人でよーく話おうたほうがええよ。それで二人が納得した形ならええんちゃう?」
「せやな……」
そのとき、私は自分が滑稽に思えた。滑稽すぎて道化のような気分だった。
健次にはそう言ったものの、私の本心はこの二人が別れることを望んでいた。
そうすれば、健次は私のところに戻ってくる……。
そんな邪な思考が頭を駆け巡っていた。
そのことは決して口にはしなかったけれど、きっと栞は薄々感じているはずだ。
あの子はそういう子だ。
悲しいくらい優しくて、酷いくらい思いやりがある。そんな子だから――。
七月は陰鬱な六月より残酷な季節だった。
私も健次も栞も何かから逃げるようにそれぞれ必死だった。
私は歌の練習に明け暮れたし、健次はバスケットボールに逃げ込んでいた。
栞は執筆に打ち込み、私とあまり顔を合わそうとはしなかった。
三者三様に逃げていたのだ。逃げたってどこにもたどり着けないというのに。
中途半端に退路があるのは良くないことだ。私はそう思う。
時間は善意も悪意もなく過ぎ去り、そこに残った物は努力による成果だけだった。
成果……。望まない努力の結晶。それだけだ。
気が付くと栞の引っ越しまであと一週間というところまで来ていた。
七夕の頃は控えめだった蝉の声も今はもう遠慮がない。
街路樹はウンザリするほど生い茂り、京都盆地の暑い夏を体現しているようだ。
祇園祭で賑わう京都市内には観光客が押し寄せていた。私の知ったことではないけれど……。
私たちは大きな代償を支払って大切なことを学んだのだと思う。
大切な。そして大人になるために必要な不都合な真実について。
時として逃げると取り返しがつかなくなる。覆水は決して盆には返らないのだ。
そんな教訓めいた何か。それを思い知らされた。
それを思い知らされたのは終業式の日だ。
私と健次は栞から呼び出しを受けた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
あなたに誓いの言葉を
眠りん
BL
仁科一樹は同棲中の池本海斗からDVを受けている。
同時にストーカー被害にも遭っており、精神はボロボロの状態だった。
それでもなんとかやっていけたのは、夢の中では自由になれるからであった。
ある時から毎日明晰夢を見るようになった一樹は、夢の中で海斗と幸せな時を過ごす。
ある日、他人の夢の中を自由に行き来出来るというマサと出会い、一樹は海斗との約束を思い出す。
海斗からの暴力を全て受け入れようと決意してから狂いが生じて──。
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる