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第三章 神戸1992

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「日曜に逢子とそっちいくよ」
 佐藤くんは電話口でそういった。公衆電話からなのか雑音が多い。
「そうなんや」
「うん。良かったら鴨川さんたちにも会いたくてね。予定どうかな?」
「ウチはええけど、ケンちゃんが難しいかも……。あの人、週末部活なんよ」
 夏場の健次は忙しい。バスケ部に後輩も入って指導に追われている。
「そうなんだ……。せっかくだから岸田くんとギター練習しようかと思ったんだ。じゃあ鴨川さんだけでもどう? 逢子も会いたがってたしさ」
「かまへんよ。ウチも三坂さんに会いたいし」
「じゃあ、日曜ね! 午前中には二条城近くに行くからよろしくね」
 佐藤くんは心なしか機嫌が良かった。
 おそらくいいことがあったのだろう――。
 翌週の朝。
 私は下着姿で姿見の前に立っていた。鏡に全身が映し出されている。
 鏡には私の顔をした女が映っていた。当然、自分自身だ。
 しかし、その女が自分だと思えなかった。
 発声練習やトレーニングで身体のライン・顔の輪郭は細く引き締まった。
 肌の色も健康的で血色もいい。
 細くなっても胸の膨らみはあまり変わらなかった。
 我ながら良い形をした乳房だと思う。
 しかし、そんな風に整った造形が私は気に入らなかった。
「はぁ……」
 思わずため息が零れる。痩せた私は母そっくりだ。本当に嫌になる。
 近所のおばさんたちは「お母さんに似て綺麗になった」と悪びれる様子もなく私を褒めた。
 悪びれる様子もなく。悪意の欠片もなく。全面的な善意で。
 善意とは忖度ある悪意よりタチが悪い。思いやりは時として人を傷つける。
 辛うじて髪型だけは母のそれとは違った。それだけが救いだった。
 私はシャワーを浴びるために風呂場へと向かう。
 私の家の風呂は一般的な家庭の風呂とは違うらしい。
 これは健次の家で初めて知ったことだけれど。
 浴槽は檜風呂で、洗い場にはシャワーが三つ備え付けられていた。
 祖母から聞いた話だと、昔は反物を仕入れに来た客人をもてなしていたらしい。
 その名残で今現在も旅館のような風呂があるのだとか。
 控え目に言ってどうかしている思う。普通は檜風呂のある家庭なんてない。
 シャワーで汗を流す。寝汗をかいていたので気持ちが良い。
 身体中隈無く洗う。陰部は特に丁寧に。他意はない。ちなみに私の陰部は未使用品だ。
 まだとってある。誰に最初に使わせるかは分からないけれど。
 風呂場を出るとバスタオルで水滴を拭って、新しい下着を身につけた。
 脱衣所を出るとようやく、この世に生まれたような気分になった。
 やっと現実に戻ったような気分だ。
 再び自室の姿見の前に立ち、身支度を整えた。
「したら、行くか……」
 私は独り言を呟くと、そのまま待ち合わせ場所へ向かった――。
 待ち合わせ場所は前回のライブハウスだ。
 佐藤くんの話だと次のライブの打ち合わせがあるらしい。
 その日は久しぶりの晴天で、太陽は元気に地上を照らしていた。
 照らすというより焼いている。かなり暑い。
 今頃健次はどうしているだろう?
 汗まみれになりながらボールを追っているだろうか?
 私は健次がバスケットボールしている姿が好きだった。
 もし、栞が健次と付き合っていなければ応援に行ったかもしれない。
 仮に私が応援に行ったとしても健次は文句一つ言わないだろう。
 むしろ歓迎してくるはずだ。
 でも私はどうしても応援に行く気はしなかった。
 仕方がない。
 健次の彼女は栞で、私はただの腐れ縁。その事実は揺るがない。
 健次と栞の関係を認めた今でも少しだけ感傷はあった。
 その感傷は私を傷つけるほどではなかったけれど、酷く寂しい気持ちにさせた。
 たぶん、私は自分の『ハジメテ』を健次に貰って欲しかったのだ。
 そのための未使用品。そのための『ハジメテ』だった。ついこの間までは……。
 我ながら自分が馬鹿で純粋で、同時に不純に思えた。
 気が付くと私は二条城近くのライブハウスの前に辿り着いていた。
 六月にしては早すぎる蝉の声が耳に痛かった――。
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