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第三章 神戸1992

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「この前のことだけどさ……」
 栞の声は震えていた。肩も小刻みに震える。
「うん」
 栞の顔は蒼白そうはくだった。表情は失われ能面のようにも見える。
 綺麗に揃えられた前髪。そこに隠れるように色のない瞳。
 色彩を欠いた瞳は今にもこぼれ落ちそうに見えた。
 もし、地球の重力がもう少しだけ強ければこぼれ落ちるかもしれない。
「私はずるい女だと思う」
 彼女はそれだけ口にすると、か細い指で自身の前髪を撫でた。
「ずるい?」
「そうだよ。ずるいんだよ。月子ちゃんは私の大切な友達だし、岸田君のことも好き……。私はどっちかをとるなんて出来なかった。二人とも大切だし、両方失いたくなんかなかった」
 その言葉は私に向けられているようには聞こえなかった。
 言い聞かせている相手は。もしくは『神様』だろう。
「かまへんて、それで。栞はケンちゃん好きになって告白してOKもろただけやろ? ま、ウチがケンちゃんに手を出すのが遅かったんが悪いだけやからな……。せやから栞はなんも悪くない! ウチが栞の立場でも同じようにしたと思うし」
 これは嘘偽りない。本当の気持ちだ。
 仮に私と彼女の関係が逆だとしたら同じような決断をしただろう。
 いや……。もしかしたらもっと卑劣ひれつな手段を取ったかもしれない。
「ねえ月子ちゃん? 私は友達が本当に少ないんだ。もし月子ちゃんがあのとき、私に声を掛けてくれなかったら、あの場で生きるのを諦めてたのかもしれない……」                      
「いやいや、栞あんた大げさやで!? ウチが居なくてあんたはしっかり者やん?」
 栞は大きく首を横に振る。
「違う! そうじゃないんだよ! あのときは本当にいなくなりたかったんだ。みんな嫌いだし、誰も私を分かってくれなかった……。お母さんは好きだったけど、あの人はいつも家にいなかったから……」
 いなくなりたかった……。
 私はその言葉の意味をすぐに理解できた。
 栞は消えてしまいたかったのだ。
 失踪とか、もっと言えば死とも違う。
 『川村栞』という存在が初めからいない状態。が極めて近いと思う。
「気持ちは分かるで……。ウチも昔からそう思うことよくあるから……」
「え……?」
「なんてゆーたらええんかな? ほんまにこの世の全てが憎たらしく思うことがあんねん。ケンちゃんの無神経さも嫌やし、ウチは自分の母親も大嫌いや! んで学校行ったら行ったで、女子同士で上辺だけの付き合いやろ? ほんまウンザリやで! そんでも……。ウチはこの世に未練があるから生きとるんやけどな」
 『未練』は適当な表現ではない。
 どちらかと言えば『希望』という言葉の方がこの場合妥当だろう。
 しかし私は『希望』というチープな言葉を使いたくなかった。
 それはまるで『願い』という言葉を『欲望』と置き換えるよう気持ちだ。
 綺麗事なんて大嫌いだ。欲望に忠実に潔く生きたい。
「月子ちゃんの未練ってなーに?」
 栞は虚ろな瞳のまま私を見上げた。
「いつもゆーてるやろ! ウチは武道館のステージに立つんや! そんで観客全員にちやほやされるんやで! 最高な未来やないか!」
 最高の未来……。これも綺麗事かもしれない。
 でも私はこの『欲望』に塗れた未来に強く惹かれていた。
「私も……。直木賞が欲しい。日本中で一番の作家になりたい……」
 栞の声はあまりにも小さかった。雨音にかき消されるくらいに。
 しかし彼女の言葉には火が宿っている。少なくとも私にはそう聞こえた。
「せやろ! ウチらは夢を追う仲間やないか! 道は違うけどそれは変わらへん! せやからあんまり考えこまんでえーんやで? ケンちゃんのことはもう終わったことや!」
 栞の顔を覗き込む。すると穏やかな笑顔が浮かんでいた。
 そのとき、改めて理解した気がする。
 そうだ。そうなのだ。
 私はこの子の笑顔が見たかったのだ……。可愛くて人懐っこい笑顔。
 雨は一層強くなった。どう足掻いても家に着く頃はびしょ濡れだ。
「あーあ、ごめんなー栞。ウチが誘ったばっかりに雨が……」
「ううん。大丈夫だよ! たまにはこんなのも悪くないからさ」
 鴨川のほとりで私たちは再び、お互いの未来を語り合った。
 願わくば、栞が幸せでありますように――。
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