深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第五話 今、挟まれる栞

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 ワインをグラスに注ぐ。桃色のロゼワインだ。
「これ担当さんから貰ったんだー。飲みきりサイズだから開けちゃおう」
 栞はそう言うと「ふふん」と上機嫌に鼻を鳴らした。
「いいね。おつまみ出すよ」
「うん。お願ーい」
 小ぶりなワイングラスとパン屋の景品で貰った白い皿。そんな食器がテーブルに並んだ。不思議と上品に見える。
「水貴くんと一緒に夜更かしするの久しぶりだねー」
「ほんとだね」
 栞と二人でお酒を飲むのはいつぶりだろう? そもそも最近は一緒に食事すら取っていない気がする。
「そうだよー。ま、お互い忙しかったからね。ほら、私も新作で忙しかったしさ」
「うん」
 一言だけ返す。聞いてるよという意思表示だけ。僕と栞の関係は昔からこうなのだ。特別な言葉はいらない。必要なのは一緒に居る空間であり、たまに見せ合う文章。ただそれだけだ。
 思えば中学時代から僕たちは会話より活字でコミュニケーションを取ることが多かった。僕も彼女もそれほど口数が多いタイプでもなかったし、むしろ多くを語らないことが僕たちの絆を強くしたのだと思う。
 別にお互いの気持ちを恋文のように伝え合ったわけではない。誰に当てたわけでもない物語を書いて見せ合っただけだ。僕はありふれた純文学を、栞はハイファンタジーを。そうやって互いの作品を読み合った。それは僕にとって掛け替えのない時間だったと思う。
「でも……。これでようやく一段落だよ」
 栞はそう言うと「ふぅ」と気の抜けたため息を吐いた。
「栞は本当に頑張ってる思うよ。いつもお疲れ様」
「ありがとう! 水貴くんもね」
 思えば栞とはずっとこんな関係だ。いつも僕が支えてもらってばかりな気がする――。
 
 僕らが出会ったのは一四歳のときだった。当時の僕は本当に何も知らない子供で、世間や大人の世界。いや、もっと言えば子供の世界さえ知らなかった。
 おそらく僕は人と人が付き合うこの世界が得意ではなかったのだ。だから物語の世界……。文章の世界に身を置くようになったのだと思う。
 文章の世界はいつも穏やかで優しかった。仮に物語の中で殺人が起こっても本を閉じればそんなことは消え去ってしまう。
 当時の僕はよく『現実も同じように閉じたら消えれば良いのに』と思ったものだ。そう思うぐらいには僕の現実は冷たく無意味なものだったのだ。
 そんな無意味な現実に色彩を与えてくれたのが栞だった。彼女はとても実直でいつも前を見据えている少女だった。そんな彼女の姿勢は少なからず僕に勇気を与えてくれた。そのとき貰った勇気が今の僕を形作ったのだと思う。
 中学二年生から高校を卒業するまでの間、僕たちは互いに物語を紡いだ。
 まぁ、僕は途中で作家の世界からドロップアウトしたのだけれど……。
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