深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第四話 深夜水溶液

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 水面にはネオンの光が映っていた。その様はまるで光の万華鏡のようだ。幾重にも色が重なり、青から赤へ、赤から緑へその色を変化させていく。健次のRXー7は徐々に減速して料金所を通り過ぎた。心なしかアクセルの踏み方が上機嫌だ。
「どこ行くん?」
「ん? ちょっとな」
 健次はそう言うと嬉しそうに鼻を鳴らした。また健次のサプライズが始まったらしい。
「ふーん……。まぁええわ」
 私は平静を装いながら俯いた。本当はすごく嬉しい。どう足掻いても口元が緩んでしまう。
 こうして二人でドライブするのは久しぶりだ。思えば今年に入ってからは私の単独移動が多かった気がする。
「お前、今年はずっと忙しないなぁ」
「ん? まぁな。でもええんちゃう? 暇は嫌やし」
「ハハハ、お前らしいな」
 健次と話しているとすごく落ち着く。彼の声のトーン、息づかい、匂い……。その全てが心地よかった。一番身近で最も大切な人。それが隣にいてくれる。それだけで幸せな気持ちになる。
「ほら、着いたで」
 健次はそう言うと埠頭の隅っこに車を停めた。
「ここどこ?」
「晴海埠頭や」
 晴海埠頭。確か銀座の近くだった気がする。(未だに都内の地理に疎いから詳しくは分からない)
「ほら、行くで!」
「うん」
 それから私たちは一緒に夜の湾岸を歩いた。水面は黒く、ただただ光を乱反射させている。水に映りきれない光は闇に吸い込まれ、東京の夜の中へ消えていった。
「昔一緒に鴨川に行ったなぁ」
「せやなぁ。懐かしいな……。あんときはお前めっちゃ思春期やったやろ?」
 健次は茶化すように言うと優しい声で笑った。
「まぁなぁ。一四やったししゃーないやん? ほら、ウチも栞もガキやったから」
「ほんまにな。ま……。俺もお前らのことは言えんけどな」
 本当に懐かしい。十四歳の私はどうしようもないくらい子供だった。世間知らずだったし、身勝手だったと思う。
「お、ここらがええかな?」
 私が思い出に浸っていると健次が何かを見つけたような声を上げた。
「月子、ちょっと目瞑ってくれ」
「ん? なんやなんや」
 私は言われるがまま目を閉じた。
「したら行くで……」
 そう言うと健次は私の手を握った。硬い指先、そしてセブンスターの匂い。それを感じると一気に身体が火照る。
「どこ行くねん?」
「いいから、いいから」
 健次の手の温度を感じながら暗闇を進んだ。肌寒い外の空気とは裏腹に身体は熱い。
「よーし! 目ぇ開けてええで!」
 私はその声を合図にゆっくりと瞼を開けた。
 ――開けた瞬間、洪水のような光が目になだれ込んでくる。
 虹色のネオン、天を突くほど高いビル群、夜光を全身で受け止める水面。それらが目の前に広がった。ヴィヴィットな色彩。それは東京の夜を溶かした大きな水たまりのようだ。
「綺麗やな」
 私は酷くつまらない感想を口にした。語彙力もひったくれもない。単純で素直で嘘偽り無い感想。
「やろ? この前ドライブしとって見つけたんや。お前こんなん好きやろ?」
「うん。好き。たまらんわ」
 素直に嬉しいと思う。この景色も。それを見つけて私に見せようとした健次も。
 夜が段々と深くなる。光も音も深夜に溶け込んでいくようだ。溶けきらない光だけが行き場を失う。どこへも辿りつけない光。可哀想な夜のガラクタ。
 そっと健次が私の肩を抱き寄せてくれた。幼馴染み。そんな時間だけの関係だけれど悪い気はしない。始まらない関係。だから終わらない関係。それがとても居心地が良かった。
 結果だけ見ればこれは栞から奪い取った幸せなのだ。そこにはどんなに取り繕っても悪気や悪意があったと思う。
 好きで好きでたまらない。だから奪ってやる。そんな邪な考えがいつも私を突き進めるのだ。邪で自己中心的で利己的な考え。それが私の本来の姿なのだと思う。
 だから思う。そんな醜い私を受け入れてくれた栞や健次は大切にしなければと……。
 健次と一緒に眺める東京湾の夜景は最高に美しかった。どうしようもなく人工的な光だったけれど、それがよかった。
 人工的で人の欲望を湛えた水面。それはまるで深夜に人の欲望を溶かした水溶液のようだと思う。
「なぁケンちゃん」
「ん? なんや」
「絶対武道館行こうな」
「ああ、行こうな」
 そんな言葉が自然と零れた。その言葉も闇に吸い込まれていく。
 
 きっと私はこれからも欲望に身を委ねて前に進むのだろう。そこには当然のように悪意が込められるはずだ。でも悪意があるから前に進める。悪意が私を高い場所へ運んでくれるのだ。
 せめて自分の欲望には正直に生きよう。改めてそう思った。もしそれで身を滅ぼすならそこまでの人間だったということだ。
 そんな私の思いを余所に東京の夜は更けていった。太陽が眠り、月が踊る。そんな時間を楽しむように――。

 深夜水溶液 終
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