深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第四話 深夜水溶液

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「今月はお疲れ様でした」
 東京最終日。西浦さんが下北沢のマンスリーマンションにやってきた。黒髪のボブカット、若干目立ち始めたほうれい線、そして眉間の皺……。そんな見慣れた顔。
「お疲れ様でした。いやほんまに楽しい仕事でした」
「それは良かったわ。これで今年最大のイベントも終わりね……。あとは年末にテレビの収録あるからよろしくね」
「はーい」
 心なしか今日の西浦さんはいつもより穏やかに見えた。口元は緩み、目も普段よりは優しい。彼女はたまにこういう顔をするのだ。ほとんどの場合、鬼の形相なのでこの顔を見るのは希だけれど。
「あの……。西浦さん例のお花の件なんですけど……」
「大丈夫よ。もう手配済みだから。ウチとは畑違いだから先方驚くかも知れないけどね……」
 そう言うと西浦さんは少し困ったような笑みを浮かべた――。

 部屋を引き払うと妙に寂しい気持ちになった。一ヶ月とはいえ住んだのだ。多少の名残惜しさはある。
 さて。仕事は終わったけれど東京でやることはまだ残っている。大切な友人をお祝いするためのパーティータイム。栞の受賞祝賀会……。
 ツアーが忙しくて片手間で聞いていたけれど、栞の直木賞受賞は大々的に報道されたらしい。某文芸雑誌には彼女の書いた『みっつめの狂気』の全文とインタビュー記事が掲載されたようだ。まだその文芸雑誌を読んだわけではないけれど世間は若手美人作家の快挙に湧いたらしい。
 若手美人作家……。気恥ずかしい響きだ。自分のことでもないのに顔が熱くなる。まぁマスコミが『美人』だとか『イケメン』だとかを遣いたがっているだけの気もするけれど。(断っておくが栞は間違いなく美人だ)
 ともかく世間は栞を持てはやしているようだ。おそらく当の本人は無自覚だろうけれど世間的にはすっかり『時の人』らしい。
 実に羨ましい。私もそうなりたい。そんな欲望に塗れた考えが一瞬だけ脳裏をよぎった。脳裏を通過した時点でそれが私の本性なのだとは思うけれど――。

 翌日の夕方。私は受賞パーティーに参加するために新宿のホテルに向かった。西浦さんには洋装にしろと言われたけれど私は自分なりの一張羅を選んだ。私の一張羅。絹で編み上げた金襴緞子の振り袖だ。(余談だけれど私の実家は呉服商をしている)
 中学の頃から私はここぞと言うときは和装と決めていた。吉祥文様の子振り袖とえんじ色の袴。それが私の勝負服だ。残念ながらライブで着せて貰えたことは一度もない。まぁ『武道館公演が決まったらいいわよ』と西浦さんも言っていたのでいずれは着るつもりではいるけれど。
 ホテルのロビーには大きなシャンデリアが吊されていた。床は大理石が敷き詰められ、置かれているテーブル類も一級品のようだ。おそらくはランクの高いホテルなのだろう。京都の宿とは違う方向性の高級感ではあるけれど悪くはない。
 それから私は会場である『松の間』へ向かった。向かう道すがらドレス姿の女性やスーツ姿の男性とすれ違った。おそらく彼らも栞の受賞パーティーに参加するのだと思う。
 『松の間』の前には手書きで受賞を祝福する言葉が仰々しく書かれていた。そこに書かれたその文言をみて改めて栞が受賞したという実感が湧いた。もうずいぶん前から受賞を知っていたのに……。妙な気分だ。
 私は深呼吸すると『松の間』に入った。さあ、いよいよだ。
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