深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第四話 深夜水溶液

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 彼女……。川村栞から連絡が来たのはお盆明けだった。昨日の晩にテレビで五山の送り火の中継をやっていたのでおそらく八月一七日だと思う。
 その日はタンスのいらない中身をゴミ袋にまとめるぐらいには暇だった。必要以上に断捨離をする時間がある。それは私にとって暇過ぎる証拠なのだ。
 そんな退屈な午後に栞から電話が掛かってきた。
『ひさしぶり』
 その短い言葉を発する栞の声には懐かしさが滲んでいた。三年という年月を感じさせるような。そんな響きがする。
「せやな。ほんまに」
 私は脊髄反射的な相づちを打った。「せやな」「ほんまや」「ええやん」あたりは自然と出てしまう。
『ご無沙汰しちゃってごめんね……。ずっと忙しくてさ』
「ええよ。忙しいんはええことやで。それで? 今日はどうしんた?」
『えーと……。二つご報告が……』
 栞からの報告。口ぶりから察するにおそらく吉報だろう。
「なんかええことあった? あ! ついに結婚するんか!?」
『うん、まずはそれだね。水貴には会ったことあるでしょ?』
 「水貴」と呼ぶ栞の声は恋する女のソレだった。好きな男の名前を呼ぶ女の声はいつもこうだ。
「ああ、あるで。あの人やろ? 細身で優しそうな人。……しかし結婚かぁ。やっぱり栞に先越されたな……」
『えへへ。ありがとう』
 栞の「えへへ」を聞くのは何年ぶりだろう? 彼女は本当に幸せだとこの小憎らしい笑い方をするのだ。小憎らしい……。でも素直におめでとうと言いたくなる。
「ほんまにめでたいなぁ。おめでとう! 式やるんか?」
『うーん……。式は後になっちゃうかな。私たちあんまりお金無いからさ』
「そうか……。ま、式するときは呼んでな! ご祝儀たんまり持ってくから」
 私の「たんまり」という言葉に栞は「フフフ」と可愛らしく笑った。
 携帯片手に窓を開ける。アパートから見える景色は良くも悪くも退屈だ。日傘を差した浴衣姿の老婦人。ランニングシャツの子供。五月蠅い蝉の声。そんな感じ。
「それで? もう一つは?」
 私は景色を眺めながら栞に尋ねた。
『あと一つはね……』
 栞はそこで一回深呼吸した。結婚よりいい話なのか? とツッコみたくなる。
「なんや勿体ぶって」
『いや……。ちょっと緊張しちゃってさ』
「ええから言えや。溜めたって内容変わらんのやから」
 そう。勿体ぶったって仕方ない。どれほどドラムロール鳴らしたって優勝者は変わらないのだ。
『うん……。あのね! 内示あってさ……』
「内示?」
『あの……。あー! もう! 直木賞の!』
 ああ、そういうことか……。と私は思った。変な話だけれど栞より私の方が冷静にその内容を受け止めていると思う。
「そうかぁ! 良かったなぁ。もう確定なん?」
 私はさも当たり前かのように話の続きを促した。
『ええっ! 月子ちゃん反応薄いよぉ!』
「え? そうか? いや栞やったら取ると思っとったから……」
 栞なら取るだろう。それは私の中で確定事項だった。今回彼女が出した新作『みっつめの狂気』は直木賞にノミネートされていたし、他のどの作品よりも素晴らしかったと思う。
『あーもう! なんか拍子抜けだよー』
「……。なんかごめん。ああ、おめでとうな! さすが栞やで」
 そう言いながらも私は「また先を越されたな……」と思った。いつもこうなのだ。栞が先を走り、私が追いかける。
 まぁいいだろう。私だっていずれ……。嬉しさと悔しさの覚えながらそんなことを思った。
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