深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第二話 ワタリガラス

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 一九九四年九月。夏は下り坂で秋の足音が聞こえ始めていた。街路樹は少しずつ青さを失い、秋の色に移り変わろうしている。
 その日、私は東向島のスタジオに向かっていた。台東区と墨田区の境目。ここに来るのは実にひさしぶりだ。
 浅草駅から東向島まで歩く。本当はもっと効率的な行き方もできるけれど、毎回私はこのルートを使っていた。神谷バーの前を通り過ぎて吾妻橋を渡る。川面には散り始めた落ち葉が流れていた。
 アサヒビールの本社ビルも通り過ぎる。ここまでくれば目的地は目と鼻の先だ。昔はよくここに来たな……。そんなことを思い出した。当時の私はよくここで寝泊まりしたものだ――。
「やぁいらっしゃい」
「お疲れ様です」
 東向島のスタジオに到着すると社長が出迎えてくれた。懐かしい建物。私と社長の出発点。
「まぁとりあえず中に」
 建物の中に入ると懐かしい匂いがした。古い木材と金属が混ざり合ったような匂い。初めてこの場所に来たときから変わらない。
「ここは変わらないですね……」
「本当にね。ここだけは昔から何も変わらないよ」
 時間が止まった場所。現在進行形の思い出の場所とでも言うべきだろうか……。
 柱の節穴ひとつひとつが懐かしい。まだ私が子供だったころはこの柱にもたれ掛かって休んだものだ。あの頃は若かった。そんな年寄り臭いことを思う。
「たまに来るんですか?」
「ああ、最低でも月一は空気の入れ換えに来てるよ。ここだけは自分で掃除しておきたくてね」
「……。言ってくれれば私も来たのに……」
「いやいや。西浦部長は僕と違って多忙だから」
 あんただって忙しいだろ? と心の中で突っ込む。
「それにしても……。今更なんでここを? 研修所あるのに……」
「うーん……。たしかにそうなんだけどね。でもどうしてもここは残しておきたいんだ。役員会では税金やらなんやら掛かるって文句言われるけど……。ま、最悪僕がここを買い取るよ。そうすれば役員連中も文句は言えないだろう」
「そうですか……」
 そこまでしてここを残しておく価値があるだろうか? 会社役員としてはたしかにそう思う。今現在の役員の大半は外部から来た人間だし、そっちに意見が偏るのは当然だろう。考えてみれば社長の子飼いは私と広報部長、あとは営業部長だけだ。
 ふと壁に目をやると大きなへこみがあった。たしかこのへこみは……。
「あれ? ここの傷直さなかったんですか?」
「ん? ああ……。それは直せなかったよ。……というか直したら後悔しそうでね」
 社長は苦笑いを浮かべた。
「ハハハ、今更いいじゃないですか。あんなの若気の至りですよ」
「うん……。でも、まぁ……。僕の気持ち的にね」
 ああ、やっぱり変わらないな。私は改めてそう思った。この人は昔からこんな風に実直で良い意味でネガティブなのだ。
 傷を眺めていると当時の記憶がありありと思い出された。まだ私たちが青かった頃の記憶が。
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