深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第一話 白い灯台

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「今日はありがとうね」
「いえいえ。こちらこそ付き添ってもらっちゃって」
 そう言うと竹井くんは私のマンションの路肩に車を停める。
「じゃあまた来週ね。あいちゃんによろしく」
 彼に礼を言って車を降りる。竹井くんは私に一礼するとそのまま車を発進させた。
 私は竹井くんの車が見えなくなるまで手を振り続けた。少し名残惜しさを感じる。どうせまた会うのに、毎回二度と会えないような気持ちになるのだ。これは竹井くんに限った話ではない。他のバンドメンバーだろうが、妹だろうが同じように感じる。
 なぜだろう? ふと自問自答した。客観的に見れば私は孤独ではないのだ。友達だってそれなりにはいるし、仕事上の関係だって恵まれている方だと思う。
 恵まれているのに満たされない。それは私に必要以上の不安を与えた。不安。それが私にとって唯一信頼できる友人のようにさえ感じる。
 歪んだ言い方をすれば私は不安を最も信頼しているのだ。二三年間生きてきて一番近くに居た存在だからこそ『彼』は私の親友になったのかもしれない。正直、そんな親友いらないとは思うけれど。
 それから私は自分の部屋に戻った。玄関のオートロックを開け、ドアを開くと自室の匂いが広がる。
「ただいま」
 独り言のように呟いた。当然返事はない。
 部屋は私が出かけたときのままそこにあった。リビングのテーブルの上には雑誌と未開封のタバコがあり、キッチンシンクの上には無造作にコーヒーの袋が放置されている。
 私はソファーに身を投げるとスマホの通知を確認した。ツイッターとインスタグラムの通知が来ている。まぁ、私にとってSNSは広報活動の道具でしかないのだけれど。
 一通りSNSを見てからスマホを充電器に繋いでテーブルの上に置いた。しばらく見たくない。ひとりぼっちの世界に行きたい。
 ひとりぼっちの世界は私の帰るべき場所だ。そこには私しかいない。そんな場所。もっと言うならそこには他者と繋がるための道具が一切ないのだ。スマホも電話もなければ、写真や文章もない。そんな世界だ。オフラインの世界。WiーFiの届かない月の裏側のような処。
 定期的に、あるいは非定期的に外界から完全に離れたかった。他人との関わりを絶つことは私にとっての日常の一部なのだから――。
 シングルベッドに寝転び天井を見つめた。そこには幾何学的な模様が広がり、その真ん中に簡素なペンダントライトが吊されていた。これ以上ないくらいシンプル。病院の天井を彷彿とさせる。
 私は深呼吸しながら天井の柄を眺め続けた。徐々に心音が緩やかになり、ひとりぼっちの世界に入っていく。そしてゆっくりと瞼を閉じる。視界が遮断されると完全に独りになった。
 瞳を閉じると様々なことが浮かんだ。中学時代のこと。バンド活動のこと。家族のこと。そんな私の過去たちが順番を無視して浮かんでは消えていく。
 そんな過去たちは私の不安を優しく癒やしてくれた。良い思い出も悪い思い出も分け隔てなく私に寄り添ってくれた。思い出は優しいのだ。いつも私の所有物であり続けてくれる。未来の不安定さに比べたら過去はなんて優しいのだろう。そんな妄想にも似た思考が浮かぶ。
 しかし……。そんな思い出の中にも不明瞭なものが一つだけあった。いや、ぼんやりした思い出は他にもあるけれど、それだけは異質だった。整合性の欠片もない。そんな過去の記憶の断片。
 その記憶は幼い日に白い灯台を訪れたときのもの……。だと思う。
 白い灯台の記憶だけは酷く私を苦しめた。その記憶だけは優しくなかった。唯一、私の思い出になりきれていない。そんな感覚だ。
 仕方が無い。この思い出だけは違うのだ。幼い頃の両親と妹。その繋がりの証明。すっかり消え失せてしまった繋がりの記憶なのだから――。
 瞳を開ける。相変わらず天井には見慣れた景色が広がっていた。
 さて……。現実に戻ろう。オンラインの世界に。私は目を擦るとベッドから身を起こした。窓から差し込む夕焼けが目に染みた。
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