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視線を上げると目の前に色白で線の細い男性が立っていた。背丈は一七〇センチ前半くらい。縁のない眼鏡を掛けている。
「お久しぶりです」
彼はそう言うと微笑みながら頭を下げた。そして「僕のこと覚えてますか?」と確認するように付け加えた。とても控えめな確認だ。仮に忘れていても僕はあなたを責めたりしない。口では言わないけれど行間がそれを物語っている。
私は自身の記憶の海からかつて彼の顔を引っ張り出した。そして目の前の男性が数年前の彼と同じ人物であるか確認するように彼の顔に手を伸ばした。指先にふれた肌の感触。それはあの当時より少しばかりハリが失われているように感じる。
「京介くん」
私はただ彼の名前を呼んだ。そしてその声はあっという間に駅の雑踏に踏みにじられていった。あまりに呆気なく。あまりにも無慈悲に。
でも彼だけは私の声を拾い上げ「はい!」と嬉しそうに答えてくれた。懐かしい声だ。私の青春時代を象徴する。そんな声だと思う。
「本当に久しぶりだね」
「ですね! お会い出来て嬉しいです」
彼はそう言って照れたように笑った。
「とりあえず座ったら?」
「はい、失礼します」
私が勧めると京介は遠慮がちに私の隣のベンチに腰を下ろした。
「……にしても本当にすごい偶然だね。まさか君に会うとは思わなかったよ」
「僕もです。今日はたまたま渋谷で仕事だったんですよ。たしか春川さんは職場は新宿でしたよね?」
「そうだよー。今日は飲み会だったんだ……。京介くんは今何の仕事してるの?」
私はなんとはなしに彼に近況を尋ねてみた。もしストレートに大学を卒業したのなら就職して二年目のはずだ。
「今は父の事務所の手伝いしてます。まぁ雑用係みたいなもんですね」
父親の手伝い。それを聞いて彼の現状をある程度は推測できた。たしか彼の父親は会計士だったはずだ。
「会計士かぁ。君もすっかり社会人してんのね」
「ハハハ、まあボチボチ……。まだまだ駆け出しですけどね」
京介は苦笑すると胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「もし縁がありました……」
そう言って名刺を差し出す。名刺には『阿久津会計事務所 阿久津京介』と事務所名と彼の前が印刷されていた。役職名は特にない。どうやら本当にまだ雑用係のようだ。
「ご丁寧にありがとうございます。……じゃあ私も」
私も彼と同じように名刺を取り出した。そしていつもやっているように名刺を差し出す。「株式会社ニンヒア 企画部 企画二課 主任 春川陽子」そんな字面だけなら立派な名刺だ。まぁ、実情は名ばかり管理職件問題児のお守り係なのだけれど。
「すごい! 主任なんですね」
京介は感心したように言うと目をキラキラと輝かせた。憧れのスポーツ選手に会った小学生みたいな反応に思わず笑いそうになる。
「まぁ一応はね。でもウチの会社の主任はそんなご大層なもんじゃないよ。中間管理職のサポート……。要は雑用係だからね」
「でも! 春川さんまだ若いじゃないですか! その歳で主任になれるなんて本当にすごいと思います」
「ハハハ、ありがと。褒め言葉として受け取っておくよ」
そんな話をしている最中も電車は発着を繰り返していた。人身事故の処理が終わったのか遅延もなくなっていた。あっという間に平常運転だ。死者が横に片付けられて生者の時間に戻る。生と死が溶け合った時間も終わり、アルコールで溶けた脳も再び固まり始める。
上を見上げると星空は完全に雲間に覆われていた。そしてポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
「お久しぶりです」
彼はそう言うと微笑みながら頭を下げた。そして「僕のこと覚えてますか?」と確認するように付け加えた。とても控えめな確認だ。仮に忘れていても僕はあなたを責めたりしない。口では言わないけれど行間がそれを物語っている。
私は自身の記憶の海からかつて彼の顔を引っ張り出した。そして目の前の男性が数年前の彼と同じ人物であるか確認するように彼の顔に手を伸ばした。指先にふれた肌の感触。それはあの当時より少しばかりハリが失われているように感じる。
「京介くん」
私はただ彼の名前を呼んだ。そしてその声はあっという間に駅の雑踏に踏みにじられていった。あまりに呆気なく。あまりにも無慈悲に。
でも彼だけは私の声を拾い上げ「はい!」と嬉しそうに答えてくれた。懐かしい声だ。私の青春時代を象徴する。そんな声だと思う。
「本当に久しぶりだね」
「ですね! お会い出来て嬉しいです」
彼はそう言って照れたように笑った。
「とりあえず座ったら?」
「はい、失礼します」
私が勧めると京介は遠慮がちに私の隣のベンチに腰を下ろした。
「……にしても本当にすごい偶然だね。まさか君に会うとは思わなかったよ」
「僕もです。今日はたまたま渋谷で仕事だったんですよ。たしか春川さんは職場は新宿でしたよね?」
「そうだよー。今日は飲み会だったんだ……。京介くんは今何の仕事してるの?」
私はなんとはなしに彼に近況を尋ねてみた。もしストレートに大学を卒業したのなら就職して二年目のはずだ。
「今は父の事務所の手伝いしてます。まぁ雑用係みたいなもんですね」
父親の手伝い。それを聞いて彼の現状をある程度は推測できた。たしか彼の父親は会計士だったはずだ。
「会計士かぁ。君もすっかり社会人してんのね」
「ハハハ、まあボチボチ……。まだまだ駆け出しですけどね」
京介は苦笑すると胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「もし縁がありました……」
そう言って名刺を差し出す。名刺には『阿久津会計事務所 阿久津京介』と事務所名と彼の前が印刷されていた。役職名は特にない。どうやら本当にまだ雑用係のようだ。
「ご丁寧にありがとうございます。……じゃあ私も」
私も彼と同じように名刺を取り出した。そしていつもやっているように名刺を差し出す。「株式会社ニンヒア 企画部 企画二課 主任 春川陽子」そんな字面だけなら立派な名刺だ。まぁ、実情は名ばかり管理職件問題児のお守り係なのだけれど。
「すごい! 主任なんですね」
京介は感心したように言うと目をキラキラと輝かせた。憧れのスポーツ選手に会った小学生みたいな反応に思わず笑いそうになる。
「まぁ一応はね。でもウチの会社の主任はそんなご大層なもんじゃないよ。中間管理職のサポート……。要は雑用係だからね」
「でも! 春川さんまだ若いじゃないですか! その歳で主任になれるなんて本当にすごいと思います」
「ハハハ、ありがと。褒め言葉として受け取っておくよ」
そんな話をしている最中も電車は発着を繰り返していた。人身事故の処理が終わったのか遅延もなくなっていた。あっという間に平常運転だ。死者が横に片付けられて生者の時間に戻る。生と死が溶け合った時間も終わり、アルコールで溶けた脳も再び固まり始める。
上を見上げると星空は完全に雲間に覆われていた。そしてポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
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