上 下
36 / 40

36

しおりを挟む
 視線を上げると目の前に色白で線の細い男性が立っていた。背丈は一七〇センチ前半くらい。縁のない眼鏡を掛けている。
「お久しぶりです」
 彼はそう言うと微笑みながら頭を下げた。そして「僕のこと覚えてますか?」と確認するように付け加えた。とても控えめな確認だ。仮に忘れていても僕はあなたを責めたりしない。口では言わないけれど行間がそれを物語っている。
 私は自身の記憶の海からかつて彼の顔を引っ張り出した。そして目の前の男性が数年前の彼と同じ人物であるか確認するように彼の顔に手を伸ばした。指先にふれた肌の感触。それはあの当時より少しばかりハリが失われているように感じる。
「京介くん」
 私はただ彼の名前を呼んだ。そしてその声はあっという間に駅の雑踏に踏みにじられていった。あまりに呆気なく。あまりにも無慈悲に。
 でも彼だけは私の声を拾い上げ「はい!」と嬉しそうに答えてくれた。懐かしい声だ。私の青春時代を象徴する。そんな声だと思う。
「本当に久しぶりだね」
「ですね! お会い出来て嬉しいです」
 彼はそう言って照れたように笑った。
「とりあえず座ったら?」
「はい、失礼します」
 私が勧めると京介は遠慮がちに私の隣のベンチに腰を下ろした。
「……にしても本当にすごい偶然だね。まさか君に会うとは思わなかったよ」
「僕もです。今日はたまたま渋谷で仕事だったんですよ。たしか春川さんは職場は新宿でしたよね?」
「そうだよー。今日は飲み会だったんだ……。京介くんは今何の仕事してるの?」
 私はなんとはなしに彼に近況を尋ねてみた。もしストレートに大学を卒業したのなら就職して二年目のはずだ。
「今は父の事務所の手伝いしてます。まぁ雑用係みたいなもんですね」
 父親の手伝い。それを聞いて彼の現状をある程度は推測できた。たしか彼の父親は会計士だったはずだ。
「会計士かぁ。君もすっかり社会人してんのね」
「ハハハ、まあボチボチ……。まだまだ駆け出しですけどね」
 京介は苦笑すると胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「もし縁がありました……」
 そう言って名刺を差し出す。名刺には『阿久津会計事務所 阿久津京介』と事務所名と彼の前が印刷されていた。役職名は特にない。どうやら本当にまだ雑用係のようだ。
「ご丁寧にありがとうございます。……じゃあ私も」
 私も彼と同じように名刺を取り出した。そしていつもやっているように名刺を差し出す。「株式会社ニンヒア 企画部 企画二課 主任 春川陽子」そんな字面だけなら立派な名刺だ。まぁ、実情は名ばかり管理職件問題児のお守り係なのだけれど。
「すごい! 主任なんですね」
 京介は感心したように言うと目をキラキラと輝かせた。憧れのスポーツ選手に会った小学生みたいな反応に思わず笑いそうになる。
「まぁ一応はね。でもウチの会社の主任はそんなご大層なもんじゃないよ。中間管理職のサポート……。要は雑用係だからね」
「でも! 春川さんまだ若いじゃないですか! その歳で主任になれるなんて本当にすごいと思います」
「ハハハ、ありがと。褒め言葉として受け取っておくよ」
 そんな話をしている最中も電車は発着を繰り返していた。人身事故の処理が終わったのか遅延もなくなっていた。あっという間に平常運転だ。死者が横に片付けられて生者の時間に戻る。生と死が溶け合った時間も終わり、アルコールで溶けた脳も再び固まり始める。
 上を見上げると星空は完全に雲間に覆われていた。そしてポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

貴方の事なんて大嫌い!

柊 月
恋愛
ティリアーナには想い人がいる。 しかし彼が彼女に向けた言葉は残酷だった。 これは不器用で素直じゃない2人の物語。

殿下には既に奥様がいらっしゃる様なので私は消える事にします

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のアナスタシアは、毒を盛られて3年間眠り続けていた。そして3年後目を覚ますと、婚約者で王太子のルイスは親友のマルモットと結婚していた。さらに自分を毒殺した犯人は、家族以上に信頼していた、専属メイドのリーナだと聞かされる。 真実を知ったアナスタシアは、深いショックを受ける。追い打ちをかける様に、家族からは役立たずと罵られ、ルイスからは側室として迎える準備をしていると告げられた。 そして輿入れ前日、マルモットから恐ろしい真実を聞かされたアナスタシアは、生きる希望を失い、着の身着のまま屋敷から逃げ出したのだが… 7万文字くらいのお話です。 よろしくお願いいたしますm(__)m

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

愛する人が妊娠させたのは、私の親友だった。

杉本凪咲
恋愛
愛する人が妊娠させたのは、私の親友だった。 驚き悲しみに暮れる……そう演技をした私はこっそりと微笑を浮かべる。

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

【完結】もう辛い片想いは卒業して結婚相手を探そうと思います

ユユ
恋愛
大家族で大富豪の伯爵家に産まれた令嬢には 好きな人がいた。 彼からすれば誰にでも向ける微笑みだったが 令嬢はそれで恋に落ちてしまった。 だけど彼は私を利用するだけで 振り向いてはくれない。 ある日、薬の過剰摂取をして 彼から離れようとした令嬢の話。 * 完結保証付き * 3万文字未満 * 暇つぶしにご利用下さい

処理中です...