月の女神と夜の女王

海獺屋ぼの

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下弦の月

裏月 ダイダロス

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 私と茜ちゃんはシェアハウスの前で並んで立っていた。茜ちゃんは嬉しそうにそわそわしている。私は思わずため息をついた。
 午後五時半を回る頃、大志が迎えにきてくれた。彼はシャコタンのオデッセイをシェアハウスの前に停めると運転席のウィンドウを開けた。
「お待たせ!」
 大志に促されて私たちは車に乗り込んだ。私は助手席に、茜ちゃんは後ろの座席に座る。
「迎えきてくれてありがとうねー。えーと、この子が例の中学生で茜ちゃんって言うんだ! 最初に言っておくけど、この子は喋れないから私が通訳するね!」
 私がそう言うと茜ちゃんは大志の肩をさすってペコリとお辞儀をした。
「しゃべれない?」
「うん、ちっちゃい頃からそうなんだってさ! でも耳は大丈夫だからウチらの話は普通に聞こえるはずだよ!」
「そっか、茜ちゃんよろしくね! 俺は松田大志っていうんだ。ウラとは一年ちょい前から一緒にバンドやってるんだ。こいつとは、まぁ仲良くやってるかな! ウラはなんだかんだ面倒見いいから頼るといいよ」
 私は大志に間接的に褒められて嬉しかった。これからあの女に会う羽目になったせいか、大志は妙に優しかった。茜ちゃんは大志に会えてとても嬉しそうにしている。このまま三人でドライブでも行きたかったけどそうもいかない。
「大志さぁ……。さっきも言ったけど、我慢できなかったらごめんね。極力穏やかにするつもりだけど、彼女きっと私に突っかかると思うんだよねー」
「だろうな。純もなんであんなのと付き合ってるのか俺にもわからん」
 大志はそう言って面倒くさそうにため息をついた。大志も佐倉美佳のことがあまり好きではないようだ。
 ガストに到着してすぐに、私たちは店内に入った。どうやらジュンたちはまだ来ていないらしい。私たちは窓際の席に座って彼らを待つ事にした。夕方のガストは茨城大学の学生たちがたくさんいた。私たちはとりあえずドリンクバーを頼んで飲みながら打ち合わせを始めた。
「茜ちゃん、メロンソーダでいい?」
『うん! ウラ姉さんありがとー』
 茜ちゃんと一緒にドリンクバーに行って飲み物をとってきた。席に戻ると茜ちゃんは美味しそうにメロンソーダをストローですすった。
「それでさ、今日集まったのは対バンに関してなんだけどよ。純には少し話といたんだけど、ウラ三日くらい地元離れられるか?」
「まぁ三日くらいならなんとかなると思うよ! バイト先には話つけるからたぶん行ける。それで? 今度の対バンはどんな感じよ?」
「お前覚えてるか? 前々回くらいに一緒に対バンした《アシッドレイン》ってバンド。あの人たちから誘われてさー。彼らの地元のイベントに参加しようと思うんだ」
 その名前を聞いて私はピンと来た。彼らも私たちと同じハードコア系バンドだ。でも毛色としては、パンクロック寄りでクリーンヴォイスメインのバンドだった気がする。
「ふーん、《アシッドレイン》かぁ。あの人たちもいい感じのバンドだよねー。ヴォーカルの人の声もカッコいいし、ノリよりメロディを大切にしているバンドだよね?」
「そうなんだよ! こだわりがあるバンドなんだよなー。メンバーもみんな良識的だしさ、これからも付き合っていければって俺は思うんだ」
 確かに大志の言う通りだと私は思った。あのバンドは自分たちの音楽に対してこだわりと責任を持っているように思う。私たちと違ってメンバー同士の交流もよくしているし、とても仲が良いように見えた。
「それに関しては私も同意見だよ! 彼らみたいな人たちとは仲良くやっていきたいよね! 情報交換の機会もすごく貴重だしさー。それで? どこのライブハウスでやるの?」
「それなんだけどさ……」
 大志が言いかけたとき、その後ろから、待っていた二人がやってきた。いや、やってきやがった。
「ごめんね二人とも! 遅くなった」
 ジュンはそういうと私の向かいの席に座った。
「こんばんはー。大志君も京極さんもひっさしぶりー!!」
 佐倉美佳はそう言うとジュンの隣に座る。彼女は相変わらずすごい服装をしていた。甘ったるい感じで、どこの異世界からやってきたのかわからないようなゴシックロリータの服を着ている。
「美佳ちゃん久し振りだね! 元気そうで良かったよ」
 大志は心にもないことを言って挨拶をした。
「あー、大志君!! 大志君も元気そうだねー。ミカはいっつも元気だよー」
「本当に元気そうだね……。ジュン君とも順調そうだし何よりだよ」
 私も心にないことを言った。マジでストレスになる。
「京極さんも相変わらずヤンチャそうだねー! うん! ミカと純君はすっごい順調だよ。順調すぎてヤバいくらい」
 佐倉美佳はそう言ってジュンの左肩に抱きついた。
「その子は?」
 ジュンは茜ちゃんを見ながらそう言った。
「この子は私の部屋のお隣さんだよ! バンドに興味あるって言うから連れてきたんだー」
 私は茜ちゃんの事をジュンに紹介した。茜ちゃんの人となりを話すとジュンは優しい口調で茜ちゃんに挨拶した。
「初めまして茜ちゃん! 高木純って言います。バンドではベースやってるんだー。もし気になる事あったら何でも聞いてね」
 ジュンはそう言うと茜ちゃんに微笑みかけた。
「バンドの打ち合わせなのになんで連れてきたの?」
 佐倉美佳は私に突っかかるようにそう言った。
「この子のお兄ちゃんが今仕事中で、私が面倒見てるんだよ。それにバンドにも興味あるって言うからさ」
 私は穏やかな口調で彼女に返した。
「ふーん、京極さんあんまり打ち合わせに部外者いれない方が良いと思うよ! まあ良いけどさ……」
 お前も十分部外者だろ? と心の中でツッコミを入れつつ私は穏やかに微笑んでみた。けど、心の中では本格的にイライラが積み上がってきた感じだ。茜ちゃんは困ったような顔をしたので、私は『ごめんね茜ちゃん! こういう人だから許してあげて』とLINEを送った。そのLINEを見ると茜ちゃんは察したように苦笑いを浮かべた。
「で? 大志。さっき話が途中だったけどさ、どこのライブハウスでやるの?」
「ああ、それが今回は彼らの地元ってことで神奈川の川崎まで遠征する」
「神奈川かー、また遠いねー。でもまぁ、彼らだってウチらの地元まで来てくれたわけだし、今回はこっちから出向くのが筋か……」
「そうだねー。遠征も良い経験になるし、いいんじゃないかな。でも三日間も行くなんて他に何かやることあるの?」
 ジュンは大志にそう聞くと、腕組みをした。
「ああ、実はさ……。これなんだけど」
 大志はそう言うと、バッグから封筒を取り出して私たちの前に出した。
「何これ?」
「ウラ、開けてみ?」
 私は大志に言われて封筒を開けてみた。中にはチケットが四枚入っている。
「えー、なになにー? 見せてー!」
 佐倉美佳は私が取り出したチケットの一枚を取った。
「これって……。アフロディーテのアリーナツアーのチケットじゃん!? どうしたのこれ!?」
 私は興奮気味に大志に聞いた。
「ほらお前、前からアフロディーテのライブ行きたいって言ってたろ? ちょっと知り合いのツテでチケット用意してもらったんだ。せっかくだから対バン行くついでにライブ行こうと思ってさ。ライブ行くのも大事な経験だしよ」
 私は興奮を隠せなかった。あんなに憧れて、もう恋こがれるほど聴いたアフロディーテのチケットが目の前にある。
「大志! 大好き! こんなに嬉しいの初めてかも知んない!!」
 私は大志の手をがっしりと握って彼に感謝した。マジで嬉しい。今死んでも構わない。いや、死ぬのはライブ見終わってからだ。
「大志張り込んだねー。俺もアフロディーテのライブ行きたかったから嬉しいよ」
 珍しくジュンも興奮しているようだ。
「まぁ待てよ! あくまでアリーナツアー行くのはついでだ! だからまずは対バンの予定をしっかり話し合おう」
 宥めるように大志にそう言われたけど私は興奮しっぱなしだ。
 大志はアフロディーテの話を棚上げして対バンの話を始めた。遠征の日程、移動方法、宿泊場所の手配。そんな事務的なスケジュールの話は大志がだいたいまとめてくれていた。今回の対バンの準備は私がやるとかいいながら結局大志にほとんどやってもらってしまった。ジュンはいつも通り大志のスケジュールに穴がないかチェックしながらメモを取っている。佐倉美佳は……。まぁとりあえず大人しくしてる。
「OK大志! 今回のスケジュールは問題ないね。私もちゃんと行けるように準備しとくよ! それでさー、曲はどうするつもり?」
「ああ、曲に関しては今回はパンクロック寄りで行こうと思うんだ。純のシャウトは少なめに、お前のヴォーカルメインの曲でいきたいんだよなー」
 大志はそう言うと曲目の書いてあるリストを私の前に差し出した。
「へー、どれどれ……」
 私はメモに目を通して複雑な気持ちになった。私たちのバンドは主に大志とジュンが作曲をしている。そのメロディを聞いて、私が歌詞をつけて曲が完成するという形になることが多い。いつものライブだとジュンの曲が八割くらい、大志が残り二割くらいって感じだった。でも今回は違っていた。
「今までとはだいぶ違うと思うけどいけるか?」
 大志に聞かれて私は考えた。
「そうだね……。これってさ、全部大志の曲だよね? それに珍しくバラードまで入ってるじゃん? どうしてこんな曲目になったの?」
「これは純と話し合って決めた事なんだけどさ! 一応俺らのバンドの看板はお前だろ? でも実際は純を見に来る客が多すぎる気がするんだ。俺らのバンドはお前のクリーンを押したいのに、もったいない気がしてさ。だから今回はウラにメインでやってもらおうと思ったんだよ」
 確かに私たちのバンドはジュンが全面に出ていた。私は飾りみたいなもので、実質的にヴォーカルとして認識されていたのはジュンだった気がする。曲にしてもジュンの曲はバリバリのハードコアで、客層を選ぶような曲だった。
「だってさぁー。純君かっこいいもん。そりゃあみんな純君のヴォーカル聴きにくるよねー」
 佐倉美佳はうざったい言い方をした。でも言ってる事は正しいと思う。ジュン目当ての女性客は実際多かった。
「たしかにね……。今までジュン君の曲に頼りすぎてた感はあったけどさ。でもこれは極端過ぎじゃね?」
「気に入らないか?」
 大志はマルボロに火をつけながらそう言って煙を吐き出した。
「私は別にいいよ! つーかこの方がむしろ大歓迎だけどさ! ジュン君これでいいわけ?」
 私はジュンに話を振った。
「んー? 別に俺は構わないよ。京極さんのヴォーカルメインでやるのは良い事だと思うしさ。俺もベースに専念できるから楽でいーねー」
 ジュンはニコニコしながらそう言った。本当にこの男の心は読めない。
「えー!? マジで! 純君のシャウトカッコいいのにもったいないじゃーん。京極さんがサブでちょうどいいくらいだとミカは思うなー」
「美佳さぁ、あんまり京極さんを舐めない方が良いと思うよ? この子は美佳が思ってるよりずっと歌唱力が高いんだ。ギター演奏が好きだからって理由で完全メインヴォーカルとかあんまりやってこなかったけど、これからはやってもらった方がいいと俺は思う」
「へー、純君ずいぶんと京極さんのこと気に入ってるんだね!?」
 佐倉美佳が機嫌を悪くしたのは一瞬で私に伝わった。これだから女は……。
「とにかくウラ! お前が了解してくれればこの曲目でやろうと思う。俺らには珍しくエンドはバラードでしめるつもりだからさ」
 大志は真面目な顔で私にそう言うと優しい笑みを浮かべた。
『ガチャーン』
 突然、大きな音が会話に割り込んでくる。隣を見るとテーブルから落ちたグラスの破片が目に入った。茜ちゃんがドリンクバーのグラスを割ってしまったようだ。
「あーあー、嫌だぁ。何やってるのこの子?」
 佐倉美佳は不機嫌そうにそう言って茜ちゃんを睨んだ。茜ちゃんは申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。
「ごめんなさいの一言もないとかどういうことよ? ねぇ! 聞いてんの!?」
 佐倉美佳は茜ちゃんにきつい声で言った。
「ああごめんね。でも佐倉さん? この子口きけないって最初に言ったよね?」
 私はもうそろそろ限界が来ていた。この女と話していると吐き気がする。
「そうだったね……。でも口もきけないんじゃ連れてくる意味なくない? 喋れないなら家でジッとしてれば良かったじゃん!?」
 佐倉美佳は最高に感じの悪い口調でそう言うと私を睨んできた。
 その瞬間、私はもうどうでも良くなってしまった。大志のために穏やかな京極さんを演じてみたけど、やっぱり私の性には合わないらしい。私は大志の方を向いて、わざとらしく笑ってみせた。
「しゃーねーな……」
 大志はそれだけ言って、それ以上何も言わなかった。どうやら大志から許可が下りた。もう大人しくする必要はない。
「ジュン君ごめん! ちょっと佐倉さん借りるね!」
 私はそう言って佐倉美佳の腕を無理矢理掴んで女子トイレへと連れて行った。
「は!? ちょっと京極さん!? 何? 何?」
 佐倉美佳はかなり混乱しているようだ。
 私は彼女の腕を引っ張って女子トイレに入った。幸いな事に女子トイレには誰もいなかった。
「京極さん! 痛いよ! なんでこんな事すんの!?」
「てめーよー、さっき茜ちゃんに何つった?」
「はぁ? だってあの子鈍くさいし、黙ってジュース飲んでるだけだから邪魔なんだもん」
「最初に言ったよなぁ? あの子は口きけねーんだよ! お前の言い草だと口がきけない人間は引きこもってろって感じじゃねえか?」
「だ、だって、本当の事じゃない? 話せないんじゃ一緒に来る意味ないし……」
 私は右手で彼女の首を掴み、女子トイレの個室の壁に叩き付けた。彼女は酷くむせて涙目になっている。
「苦しいか? 苦しいよなー? 暴れても無駄だよ。並の女の力じゃ逃げらんねーから」
 佐倉美佳は苦しそうにもがいていたけど、私の腕から逃げる事はできないようだった。
「か細い女だと思って舐めねーほうがいいよ? これでも相当鍛えてるんだ。それで? さっきまでの威勢はどうした? あァ!?」
 私は完全にヤンキーモードに入っていた。こんなにブチキレたのは何年ぶりだろう?
 彼女はガクガク震えている。でも私は止めなかった。
「わかってっと思うけど、私はてめーのことが大嫌いなんだよ! ジュンの手前、ある程度、大目に見てやってたけどもう限界だ! この場でボコって道ばたに捨ててやっても構わねーんだぞコラ!」
 やってしまった。完全にやらかしてしまった。私はそこまで言って少し冷静さを取り戻した。気がつくと彼女は失禁してる。ヤバい。さすがにやりすぎた。
「佐倉さん、マジで茜ちゃんの事は許さないからね! 今日のところはこれくらいで勘弁してやるけど、次こんな事あったら本当にシメルから!」
 そう言って私は彼女の首を掴んでいた手を離した。
 その後は、打ち合わせどころではなくなってしまった。ジュンは茫然自失した佐倉美佳を抱えながら帰るし、大志は頭を抱えていた。茜ちゃんは……。カルピスを美味しそうに飲んでいた。
「お前さぁ……。いくら何でもやり過ぎだぞ!?」
 私は大志にこっぴどく怒られた。私が悪いから何も言えない。
「ごめん。マジでごめん! ここまでやるつもりはなかったんだよ! 気がついたらさ……」
「まぁ、終わった事は仕方ないけどよー。純にちゃんと謝っとけよ! 美佳ちゃんには連絡するな! お前が連絡するとややこしくなる!」
 そんなこんなで私たちの打ち合わせはまとまらずに終わった。そして私もさすがに反省してジュンに謝りの電話を入れた。意外な事にジュンはまったく気にしていないようだった。
 それから間もなく大志から連絡があり、ジュンと佐倉美佳が別れたと聞かされた。間違いなく私が原因だ。
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