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新月
裏月 夜の女王
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私の名前を間違えず読める人間に出会ったことがない。キラキラネームというのだろう。「裏月」と書いて「ウラヅキ」「リヅキ」「リゲツ」など、色々と読み間違えられる。「ヘカテー」それが私の名前の読み方だった。もっとも、父と妹以外で「ヘカテー」と名前を呼ぶ人など誰もいない。みんな私のことを、「ウラヅキ」と呼んでいた。病院だろうが、役所だろうが、銀行だろうが。そう、誰も「ヘカテー」とは読めなかったからだ。
そんなわけで私は、「ウラヅキ」と呼ばれると自然と返事するようになった。本当は母さんがつけてくれた「ヘカテー」という名前が気に入っていたので不本意だったけど、訂正するのがとても面倒だったのだ。
駅前の大通りは夏祭りの提灯が道路を跨ぐようにびっしり並んでいる。私の住む街は元々城下町で、そこの殿様を祀る神社があり、毎年、盛大に山車が出る祭りが行われていた。大通りの歩道にはくす玉や花飾りが所狭しと飾られ、夜の祭りを待ちわびているようだった。
私はその大通りにある《カフェ・ミネルバ》でスマホをいじりながら、友人が来るのを待っていた。店内ではボサノバのBGMがかかり、地元の主婦やカップルがおしゃべりしながらお茶をしている。
私はスマホをしまって、運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れた。カフェオレかと思うほど、コーヒーの褐色と白とが混ざり合う。私は甘党で、苦いものがあまり得意ではないのだ。なのにコーヒーが好きなのだから我ながら変わっていると思う。
白濁したコーヒーに口をつけながら、《カフェ・ミネルバ》から見える店の外の景色を眺めてみた。駅の北口の大通りを車が休むこと無く走り続ける。道路の反対側にある大きな銀杏の木が緑色に生い茂っていた。この銀杏の木がだんだん黄色くなって秋になっていくのを私はここ数年この通りで眺めていた。
もうどのくらい実家に戻っていないだろう。私は高校を中退し、父と喧嘩して以来、実家に帰っていない。もう一年半近くになるだろうか? 妹からも連絡は無かった。おそらく私は妹に嫌われているんだろう。仕方ない。だって妹は私と違って「まともな人間」なのだから。
「ウラちゃん!」
私は後ろから声を掛けられて振り返った。黒く細い髪を肩までのばした女の子が立っている。服装からも雰囲気からも、彼女が清楚なお嬢様だということが伝わってくる。
「待ってたよ。今日は仕事長引いたの?」
そう聞くと彼女は申し訳なさそうに頷いて、目の前の席に着いた。
彼女は河瀬里奈。以前のバイト先の頃から付き合いのある女の子だ。女の子と言っても二歳年上の短大生で、かなりおっとりしていて、性格はいい。性格が悪く、お世辞にも穏やかじゃない私とはまるでタイプが違う。
それでも、彼女は私と仲良くしてくれる大切な友人の一人だ。彼女の性格には独特の癖があり、人見知りも手伝って、他人との距離を詰めるのに時間がかかるタイプのようだった。
里奈は、手を挙げて店員を呼ぶとブルーマウンテンとクラムベリーパイのセットを迷わず注文した。《カフェ・ミネルバ》に入り浸っている私たちは、注文が即座に決まる。
「ウラちゃんごめんねー。引き継ぎのバイトの子が急に用事入っちゃったとかで、代わりの人探すのに時間がかかっちゃったんだ」
里奈は眉毛をへの字に曲げながらそう言った。
「相変わらず人手不足なんだね。パン屋って人気ないのかな?」
そう言って私はコーヒーを少量口に含んだ。コーヒーというよりぬるい牛乳の味しかしない。相変わらず窓の外には大通りを走る車の群れが見えた。気のせいか、来店したときより気温が上がり、アスファルトが熱くなっているようだ。里奈とこのあと外に出ることを考えると、少しおっくうな気分になる。
「そうなんだよね。駅中のパン屋だと朝がものすごく忙しいからねー。ウラちゃんが、いてくれた頃はまだ人が多くいてくれて助かったんだけど、今は、早朝のスタッフが不足してるから大変で……」
「あの店は忙しいもんね。私も給料と天秤にかけて辞めたから悪いとは思うけど、待遇悪いと人集まらないと思うよー」
私がそう言うと、里奈はうんうんといった感じで、ゆっくりと首を縦に振った。彼女は、話し相手と気持ちが同調したと思ったときに、この仕草をする。その仕草は私の気持ちを柔らかいものにしてくれた。もしかしたら、私が里奈に会いたいと思うのはこの仕草を見るためかもしれない。
「みんないい人たちなんだけどねー。私もそろそろ仕事辞めようと思うんだよね」
「次はどんな仕事するつもり?」
私がそう言うと里奈は少し躊躇ったような表情を浮かべ、口元に手を添えた。そんな話をしていると、コーヒーとクラムベリーパイが運ばれてきた。きつね色のパイ生地に赤褐色のクラムベリーの実が、溢れるほど入っているパイだ。里奈は運ばれてきたコーヒーをブラックのまま一口すすると、パイをフォークで切り分けながら話を続けた。
「結婚する……」
彼女の口から出た言葉を理解するのに二秒ほどかかった。『ケッコンスル』という言葉がまるで異国の言葉のように、聞き慣れない言葉だと思えた。
「は? 聞いてないし! 何時から? 相手誰? なんでそうなった?」
私はかなり取り乱し、身を乗り出しながら里奈に詰め寄った。さすがの里奈も私の詰め寄り具合に引いたのか、かなり引きつった顔をしている。
「ごめん! ウラちゃんにはもっと早く言えばよかったよね! ただ、私も忙しくて……」
里奈にそう言われたけどまだ私は興奮していた。私は自分の感情をセーブするのがかなり苦手だった。興奮してしまうとなかなかもとのテンションに戻れない。
「とりあえず、甘いものでも食べて落ち着こう? ね?」
里奈は私の口元にフォークに突き刺したクラムベリーパイを差し出した。私は反射的にそのパイを一口で頬張ったが、里奈が切り分けたパイは思いのほか大きく、なかなか飲み込めなかった。困ったことに口の中の水分が奪われ飲み込めない。
「すいませーん。お冷やください!」
里奈は店員を呼んで水をもらった。私は店員から受け取ると口にそれを一気に流し込んだ。パサパサだった口が少しずつ潤い、どうにかパイを飲み込むことができた。パイを飲み込み終える頃、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「ごめん! テンションおかしくなってた!」
私がそう言うと、里奈は安心したのか、くすくすと口元に手を当てて笑った。どうやらツボに入ったらしい。
「美味しかった?」
「美味しかった……と思うよ? 味わってないからはっきりとはわからないけど」
「味わってほしかったなぁ」
里奈は微笑みながらそう言うと、コーヒーに息を吹きかけながらまた一口すする。
「てか、結婚の話!!」
私は里奈に本題を聞いた。
「はいはい。どこから話そうかなー?」
里奈はそう言うと、フィアンセの話を始めた。店のBGMは、フライミートゥザムーンに変わった。
そんなわけで私は、「ウラヅキ」と呼ばれると自然と返事するようになった。本当は母さんがつけてくれた「ヘカテー」という名前が気に入っていたので不本意だったけど、訂正するのがとても面倒だったのだ。
駅前の大通りは夏祭りの提灯が道路を跨ぐようにびっしり並んでいる。私の住む街は元々城下町で、そこの殿様を祀る神社があり、毎年、盛大に山車が出る祭りが行われていた。大通りの歩道にはくす玉や花飾りが所狭しと飾られ、夜の祭りを待ちわびているようだった。
私はその大通りにある《カフェ・ミネルバ》でスマホをいじりながら、友人が来るのを待っていた。店内ではボサノバのBGMがかかり、地元の主婦やカップルがおしゃべりしながらお茶をしている。
私はスマホをしまって、運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れた。カフェオレかと思うほど、コーヒーの褐色と白とが混ざり合う。私は甘党で、苦いものがあまり得意ではないのだ。なのにコーヒーが好きなのだから我ながら変わっていると思う。
白濁したコーヒーに口をつけながら、《カフェ・ミネルバ》から見える店の外の景色を眺めてみた。駅の北口の大通りを車が休むこと無く走り続ける。道路の反対側にある大きな銀杏の木が緑色に生い茂っていた。この銀杏の木がだんだん黄色くなって秋になっていくのを私はここ数年この通りで眺めていた。
もうどのくらい実家に戻っていないだろう。私は高校を中退し、父と喧嘩して以来、実家に帰っていない。もう一年半近くになるだろうか? 妹からも連絡は無かった。おそらく私は妹に嫌われているんだろう。仕方ない。だって妹は私と違って「まともな人間」なのだから。
「ウラちゃん!」
私は後ろから声を掛けられて振り返った。黒く細い髪を肩までのばした女の子が立っている。服装からも雰囲気からも、彼女が清楚なお嬢様だということが伝わってくる。
「待ってたよ。今日は仕事長引いたの?」
そう聞くと彼女は申し訳なさそうに頷いて、目の前の席に着いた。
彼女は河瀬里奈。以前のバイト先の頃から付き合いのある女の子だ。女の子と言っても二歳年上の短大生で、かなりおっとりしていて、性格はいい。性格が悪く、お世辞にも穏やかじゃない私とはまるでタイプが違う。
それでも、彼女は私と仲良くしてくれる大切な友人の一人だ。彼女の性格には独特の癖があり、人見知りも手伝って、他人との距離を詰めるのに時間がかかるタイプのようだった。
里奈は、手を挙げて店員を呼ぶとブルーマウンテンとクラムベリーパイのセットを迷わず注文した。《カフェ・ミネルバ》に入り浸っている私たちは、注文が即座に決まる。
「ウラちゃんごめんねー。引き継ぎのバイトの子が急に用事入っちゃったとかで、代わりの人探すのに時間がかかっちゃったんだ」
里奈は眉毛をへの字に曲げながらそう言った。
「相変わらず人手不足なんだね。パン屋って人気ないのかな?」
そう言って私はコーヒーを少量口に含んだ。コーヒーというよりぬるい牛乳の味しかしない。相変わらず窓の外には大通りを走る車の群れが見えた。気のせいか、来店したときより気温が上がり、アスファルトが熱くなっているようだ。里奈とこのあと外に出ることを考えると、少しおっくうな気分になる。
「そうなんだよね。駅中のパン屋だと朝がものすごく忙しいからねー。ウラちゃんが、いてくれた頃はまだ人が多くいてくれて助かったんだけど、今は、早朝のスタッフが不足してるから大変で……」
「あの店は忙しいもんね。私も給料と天秤にかけて辞めたから悪いとは思うけど、待遇悪いと人集まらないと思うよー」
私がそう言うと、里奈はうんうんといった感じで、ゆっくりと首を縦に振った。彼女は、話し相手と気持ちが同調したと思ったときに、この仕草をする。その仕草は私の気持ちを柔らかいものにしてくれた。もしかしたら、私が里奈に会いたいと思うのはこの仕草を見るためかもしれない。
「みんないい人たちなんだけどねー。私もそろそろ仕事辞めようと思うんだよね」
「次はどんな仕事するつもり?」
私がそう言うと里奈は少し躊躇ったような表情を浮かべ、口元に手を添えた。そんな話をしていると、コーヒーとクラムベリーパイが運ばれてきた。きつね色のパイ生地に赤褐色のクラムベリーの実が、溢れるほど入っているパイだ。里奈は運ばれてきたコーヒーをブラックのまま一口すすると、パイをフォークで切り分けながら話を続けた。
「結婚する……」
彼女の口から出た言葉を理解するのに二秒ほどかかった。『ケッコンスル』という言葉がまるで異国の言葉のように、聞き慣れない言葉だと思えた。
「は? 聞いてないし! 何時から? 相手誰? なんでそうなった?」
私はかなり取り乱し、身を乗り出しながら里奈に詰め寄った。さすがの里奈も私の詰め寄り具合に引いたのか、かなり引きつった顔をしている。
「ごめん! ウラちゃんにはもっと早く言えばよかったよね! ただ、私も忙しくて……」
里奈にそう言われたけどまだ私は興奮していた。私は自分の感情をセーブするのがかなり苦手だった。興奮してしまうとなかなかもとのテンションに戻れない。
「とりあえず、甘いものでも食べて落ち着こう? ね?」
里奈は私の口元にフォークに突き刺したクラムベリーパイを差し出した。私は反射的にそのパイを一口で頬張ったが、里奈が切り分けたパイは思いのほか大きく、なかなか飲み込めなかった。困ったことに口の中の水分が奪われ飲み込めない。
「すいませーん。お冷やください!」
里奈は店員を呼んで水をもらった。私は店員から受け取ると口にそれを一気に流し込んだ。パサパサだった口が少しずつ潤い、どうにかパイを飲み込むことができた。パイを飲み込み終える頃、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「ごめん! テンションおかしくなってた!」
私がそう言うと、里奈は安心したのか、くすくすと口元に手を当てて笑った。どうやらツボに入ったらしい。
「美味しかった?」
「美味しかった……と思うよ? 味わってないからはっきりとはわからないけど」
「味わってほしかったなぁ」
里奈は微笑みながらそう言うと、コーヒーに息を吹きかけながらまた一口すする。
「てか、結婚の話!!」
私は里奈に本題を聞いた。
「はいはい。どこから話そうかなー?」
里奈はそう言うと、フィアンセの話を始めた。店のBGMは、フライミートゥザムーンに変わった。
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