月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第四章 月の墓標

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 部屋に入ると花の匂いがした。見渡すとこの前見たときよりも多くの花々が部屋中に飾られていた。ピアノの横やベッド。あとは給湯用の流しの端っこにまで。よくこれだけの花瓶を持ち込んだと感心してしまうほどだ。
 そんな花たちに囲まれるように鍵山さんはピアノを弾いていた。瞳を閉じ、穏やかな表情で淡々と曲を奏でていく。
 冬木さんたちは慣れた調子で部屋に滑り込むとピアノ横のソファーに腰を下ろした。その様子から結構な回数ここを訪れているであろうことが窺える。おそらく私が忙殺されている間も彼女たちはお見舞いに来ていたのだろう。
 鍵山さんは一瞬顔を上げるとお辞儀するような仕草をこちらに向けた。そしてそのまま月の光を弾き続けた。どうやら気配だけで誰が来たのか察したらしい。
 私は彼女の演奏を聴きながら再び部屋を見渡した。ベッドの上の遠藤さんは心なしか以前より顔色が良くなったように見える。彼の眠る横には可愛らしいプリザーブドフラワーが飾られている。白いトルコキキョウと桜色の月見草。なかなか変わった組み合わせの花たちだ。
 確か月見草の花言葉は『秘めた恋』だっけ。そんなうろ覚えの知識が浮かんだ。だとしたらなんと不謹慎で適切な花なのだろう。そんなことを思った。
 花の上には送り主のメッセージカードが差されていた。送り主は浦井惣介。それを見て私は一瞬何かの間違いかと思った。でも少し考えると頭の中で線と線が繋がった。惣介は必然的な理由でこの花を贈って寄越したのだ。わざわざ浦井家のコネまで使って。
 惣介のことだ。おそらく私がこれを見つけることまで見越していたのだろう。惣介ならそれくらいやりかねない。だからこの花は遠藤さんに対してというよりも私に対する警告なのだと思う。

『これからもこの二人を見ていてやれ』

 言うなればそんな惣介なりの意地の悪い心遣いなのだと思う。

 レースのカーテンの隙間から強い日差しが漏れている。その日差しは床とピアノに反射してとても眩しかった。太陽の明かり。今ここで奏でられる音とは対極の光がこの部屋には満ちている。
 その光に照らされた月見草はまるで墓標みたいにベッドの横で咲いていた。プリザーブドフラワーなのにまるで生花のように見えた。枯れることも窄むこともない。それはなんとも言えず気味悪く思えた。終わらない関係と終わらない希望。そんなどこにもたどり着けない見せかけだけの箱庭みたいだ。
 鍵山さんは私のそんな考えを余所にドビュッシーの曲を演奏し続けていた。自分の名が付いた。そんな曲を――。

 お見舞いを終えると私はニンヒアに戻った。鍵山さんとは一言二言話しただけだけれど、彼女もすっかり以前の明るさを取り戻したように思う。いや……。おそらくはそれは見せかけだけの明るさなのだろうけれど。
 事務所に入ると西浦さんの姿があった。柏木くんは昨日から休暇に入ったのでいない。だから事務所内はいつも以上に閑散としている。
「おかえりなさい。遠藤さんの容態はどうだったかしら?」
 西浦さんは普段より幾分フランクな言い方をすると私に座るように促した。
「はい。顔色は良くなったように思います。目を覚ます兆しはないみたいですが」
「そう……。まぁそうよね。東雲先生は何て?」
「それは……。何とも。術後の経過自体は良いらしいので命に別状はないらしいです。いつ目を覚ましてもおかしくないって……。そう院長は言ってました」
「そう……。まぁ、あとはお医者様に任せましょう。もう私たちにできることなんてないからね」
 西浦さんはそう言うといつも通りタバコを取り出して口にくわえた。私もすっかり部内での喫煙に慣れた気がする。
「そうそう。私に辞令がでたの。出向よ」
 不意に西浦さんがそう言って私に内示の書かれた紙を差し出した。そこには『貴殿 西浦有栖を(株)クロノス 常務取締役に任命する』と書かれている。
「ま、左遷よ。この歳で子会社の常務にされるとは思わなかったわ」
 西浦さんはさして不満があるようには見えない言い方をすると「フッ」と笑った。
「そうなんですね……。じゃあクリエイター発掘部は?」
「ああ、そのことなんだけど。……このまま存続する予定よ。今回はクロノスの買収でゴタゴタしちゃったけど、元々このプロジェクトは社長の肝いりなのよね。だから……。おめでとう! あなたが正式にクリエイター発掘部の部長よ。これであなたも役員の仲間入りね」
 ああ、やっぱりか。と私は思った。そんな気はしていたのだ。話の流れ的に私を企画部主任に戻すなんて馬鹿げたことはしないと思う。
「あの……。西浦さん」
「なぁに?」
「お願いが――」
 それから私は自身の腹の中身を全て西浦さんに伝えた。愚かで身勝手でどうしようもなく不合理的な。そんな思いを――。

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