月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第四章 月の墓標

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それ以外にも様々な曲を弾いていた。食事と休憩以外の時間はほぼピアノに向かい合っている。そこにはある種の狂気が宿っているようにも見えた。
 私は毎日そのピアノ練習に付き添った。朝一でニンヒアに顔を出して朝礼をしてから三鷹に向かう。それが日常になりつつある。そして夕方にはニンヒアに戻って一日が終わる。それはとても希有な体験のように思えた。
 そんな日々の中で私は毎日代わる代わる色んな人たちと会った。週末には冬木さんと半井さんがお見舞いに来てくれた。京極さんとジュンくんも仕事の合間に顔出ししてくれた。それ以外にも音楽関係者が多数……。そこには鍵山母娘の人間関係が垣間見れた気がする。
 そんな日々を過ごしていると梅雨は明けた。すっかり夏らしい日が増えたように思う。病室から望める駐車場奥の公園の木々は生い茂り、やっと訪れた夏を祝っているようだ。公園内では子供たちが走り回っている。残念ながら完全防音のこの病室には蝉の声も子供の声も聞こえては来ないのだけれど。
 もうすぐ八月か……。そう思うと少し焦りを覚えた。タイムリミットまであと数日しかない。
 でも……。そんな私の不安は最高のカタチで吹き飛ぶことになった――。

 七月末日。鍵山さんから予期せぬことを言われた。彼女の目は真っ直ぐで今までの狂気的な態度が嘘のように澄み切っている。その視線はまるで私のことが見えているかのようだ。
「春川さん。たしか今日が曲の提出の締め切りでしたよね?」
 彼女はそう言うとか細い深呼吸をした。そして口元を緩めて「ギリギリになってしまい申し訳ありませんでした」と続けた。その様子から察するにどうやら月音さんの心身は幾分回復できたようだ。
「……今はそんなこと気にしないでください。確かに今日が最初に決めた曲提出の締め切りですが状況は変わったので」
 私はそんなつまらなく体裁を保っただけの言葉を返した。正直に言えばかなり崖っぷちなのだけれど、流石にここでがっつくわけにもいかないだろう。
「本当に春川さんは優しいんですね。気遣っていただきありがとうございます。……でも大丈夫。春川さんさえ良ければすぐにでも新曲の演奏しますので」
 鍵山さんはそう言うと横に眠る遠藤さんの手を優しく握った。そこには私が立ち入ってはいけない何かがあるように感じた。きっとそれは二人だけの世界なのだ。二人がともに歩き、寝食をともにし、ともに身体を求め合った――。それ故の二人だけの世界なのだと思う。
 それから私は鍵山さんに「では今から少し時間いただいて準備します」と伝えた。そしてすぐにニンヒアに連絡を入れた。いよいよ柏木くんの出番だ――。

 その日の午後。ニンヒアの技術屋と柏木くんが浦井記念病院に集まった。録音録画機材と柏木くんのノートパソコンがピアノの横にセッティングされ病室はやたら物々しい部屋に変貌した。ここまでしたら病院からクレーム入るかも……。そう思うほどに。
 海月さんはその様子を心配そうに眺めていた。彼女は娘の肩を抱き、実弟の額を撫でていた。その姿はまるで聖母マリアが描かれたルネサンス期の絵画のようだ。もしくは神の威光を称える宗教画のようかも知れない。海月さんにはそんな不思議な魅力があるのだ。魅力なんて言葉で片付けるにはいささか役不足な気もするけれど。
 そしてセッティングが終わると鍵山さんはピアノ椅子に腰を下ろした。いよいよ『月不知のセレネー』の演奏が始まろうとしていた――。
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