月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第四章 月の墓標

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 それから私は海月さんに転院手続きの書類一式を書いて貰った。これで今日の私の事務手続きの半分は終わりだ。
 鍵山さんの家から出る少し前。私たちは彼女が弾くピアノの音色を聴いた。弾かれているのはショパンの別れの曲。この前ここに来たときに冬木さんがリクエストした曲だ。その旋律は前回聴いたときよりずいぶんと弱々しく感じる。
 私たちはその死にかけのような音色を聴きながら鍵山邸を後にした――。

 鍵山邸を出ると私たちは来た道を真っ直ぐ東京方面へ戻った。寄り道は一切しない。車中で京極さんが軽口を叩いていたけれど正直それはあまり耳に残らなかった。私の耳に残っているのは鍵山さんが奏でていたあの別れの曲だけ……。本当にそれだけだ。
 私のそんな様子に気づいているだろうに京極さんはそのことについて特に触れはしなかった。おそらく彼女もあの音色にやられてしまったのだと思う。
 そうこうしている間に車は八王子近くまで進んでいた。八王子。今日の私のメインイベントの舞台だ。
「本当に降ろしてっていいの? なんなら近くで待ってるけど」
 八王子インターまであと二キロメートルという標識が見えると京極さんにそう訊かれた。
「大丈夫だよ。今日は京介が迎え来てくれるから」
「そっか……。んじゃ遠慮なく帰らせて貰うよ」
 京極さんはそれだけ返すと「ふわぁ」と気の抜けた欠伸をした。今日はここで解散。そのことにどこか安堵しているように見える。
 高速を下り八王子市内に入ると夕日が目に染みた。信号機の赤と夕日の朱が混ざり合う。それは非常に不吉なことのように思えた。これから嫌なことが起こる。それを暗示するかのような。そんな血みたいな赤に――。

 日が次第に傾く。八王子の街が夕闇に包まれていく。対向車たちのライトが妙に眩しい。そんな時間帯に私は八王子市郊外の道を走っていた。京極さんはナビの指示通りに車を進める。
「ずいぶんと郊外に住んでんのね」
 京極さんはヘッドライトを点けるとそう呟いた。
「なんか引退してからはこっちに引っ込んだみたいなんだよね。今も会長って肩書きみたいだけどほとんど会社に顔出さないんだってさ」
「ふーん。まぁ戦前生まれなら当然か……」
「まぁねぇ。おじいさまもう九〇超えてるし無理はできないのかもね」
 そんな話をしながら車は郊外のさらに奥に進んでいった。さっき甲府の山奥まで行ってきた身としては郊外っぽくはあまり感じなかったけれど。
 それから程なくして私たちは目的地に到着した。閑静な住宅街の奥にある小高い丘の上にその建物は建っていた。暗がりで見ても豪邸と分かるような日本家屋だ。
「ここでいいよ」
「あ、そ。んじゃ」
「今日もありがとね。また明日本社で」
 私は京極さんにお礼を言うと車を降りた――。

「いらっしゃいませ」
 車から降りると門の前で和服姿の女性が私を出迎えてくれた。年の頃は四〇代前半くらい……。まるで銀座の高級クラブのママみたいな女性だ。
「春川様ですね。お待ちしておりました」
 その女性はニコッと上品そうに笑うと律儀に頭を下げた。
「はい……。あの、透子さんは?」
「はい。先に到着されて、今は奥の座敷で休まれてます」
「そうですか……」
「はい。……ではこちらへ」
 彼女はそう言うと私を中に案内してくれた。表札には『浦井宗玄』という名と麻の葉の家紋が書かれていた。
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