月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第四章 月の墓標

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 風呂上がり。私たちは館内着に着替えて飲食スペースに移動した。そして飲食スペースは掘りごたつ式のテーブルでいかにもスーパー銭湯の休憩所といった感じだった。館内にはリラクゼーションらしいBGMが流れている。悪くない。この空気感を感じるとたまのスパも人生には必要な気がする。
「今日は私のおごりだから好きなの頼んで良いよ」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えさせて貰うよ」
 京極さんは塩らしくお礼を言うとレモンサワーとナシゴレンを頼んだ。どうやらここのレストランはエスニック系の料理が充実しているらしい。私もビールと軽いおつまみを頼む。
「ふぅー。お陰様でだいぶさっぱりしたよ」
「そう。なら良かったよ」
「正直しんどかったからさ。遠藤さんのこともだけど……。ほら、ウチらの公演予定も何かあったら見直しじゃん?」
 京極さんはそう言うと深いため息を吐いた。
「良かったら話聞くよ。ある程度なら協力できるだろうし」
「うーん、そうね。……そうしたいけど陽子さん今それどこじゃないじゃん?」
「ハハハ、今更気にしないでいいよ。てかアレよ。あなたたちのバンドはウチの稼ぎ頭なんだからさ」
「……そう? そう言って貰えると助かるけど」
 そんな話をしているとお酒が運ばれてきた。輪切りレモンの入ったレモンサワーとキンキンに冷えた生ビール。
「とりあえず乾杯しちゃおうか。今日は本当に助かったよ。お疲れ様」
「うん。お疲れ」
 そう言って私たちはグラスを軽く打ちあわせた――。

 それから京極さんは自身のバンドの現状について話してくれた。
「ウチらのバンドって今それなりに調子良いんだけどさ……。来年の公演計画がまだ白紙なんだよね。ほら、ウチらってライブやってこそのバンドみたいなとこあるじゃん? 音源制作は何とでもなるけど興行となるとウチら基本ノータッチだからさ」
「そっか。西浦さんは何か言ってた?」
「今んとこは何も……。てかあのおばあちゃん今は陽子さんの部署に夢中だからねぇ。正直ウチらには飽きたのかなぁってさ……。はぁ。これじゃただの愚痴だよね」
 京極さんは力なく言うと頭をボリボリ掻いた。
「うーん……。それは否定しきれないかな。確かに西浦さん今は忙しいみたいだからね」
 そう。西浦さんは今最高に忙しいのだ。クリエイター発掘部のこともそうだけれど、例の企業買収の件は特に大変なのだと思う。
「だよねー。はぁーあ。メジャーデビューしたら輝かしい未来ある! って甘い考えだったよ。マジでさ」
「そりゃあねー。入ってみて思ったでしょ? デビューなんてスタート地点だって」
「そうそう! マジでそんな感じ! むしろメジャーになってからのほうが大変……。かな」
 この手の愚痴を訊くのは久しぶりだ。そしてこのタイプの悩みは駆け出しのアーティストから毎回訊いている気がする。みんな同じなのだ。同じようなとこで躓き、同じようなことで思い悩む。だから私はある意味私はこの手の相談には慣れっこだった。まぁ……。私の言葉が彼らの役に立つかどうかは分からないけれど。
「京極さん。参考になるか分からないけど……」
 私はそう言ってバッグからノートを三冊取り出した。
「ん? 何これ?」
「これは私が入社してからずっと書きためてきたアイデア帳なんだ。今まで何回も京極さんの先輩たちにも貸し出してきたんだよ。ちょっと見てみて」
 京極さんは私からそのノートを預かるとペラペラ捲った。
「……何かすごいね」
「ハハハ、まぁ一〇年近く書きためたからね。たぶんその中に京極さんが欲しい情報もあると思うよ。少なくとも他のアーティストの子たちは多少役立ててくれたみたいだからね」
「……ありがと。借りていいの?」
「もちろん。むしろ借りて欲しいかな? そのために書きためたものだしね」
 私はそう言うと「でもなくさないでね」と付け加えた――。
 
 思えばこのノートは色んなアーティストの手に渡ってきた気がする。私が入社した当時にひよっこだったバンドも使っていたし、企画部内でもそれなりに活躍していた。我ながら良くできたアイデア帳だと思う。
 ノートに夢中な京極さんを余所に私は追加のビールを注文した。身体が少し火照ったように感じた。
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