月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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「アリスちゃん人払いは?」
 社長はギターにワックスを掛けながら西浦さんにそう尋ねた。
「ええ、大丈夫です。役員全員に会議室に来ないように伝えましたので」
「流石だね。相変わらず完璧だ」
 社長はそう言うとギターケースにレスポールをケースにしまった。そして大事そうに元あった場所にそれを戻す。
「春川さん。まぁとりあえずそこに掛けなさい。アリスちゃんもね」
「はい」
 私は社長にそう促されてソファーに腰掛ける。
「さて……。まずはどこから話そうか……」
 社長はそう言うと眉間に皺を寄せた。
「とりあえず順序立てて話そうかな? 副社長もそれでいいかな?」
「ええ、構いませんよ。……春川さん、ちょっと込み入った話になるわ。ごめんなさいね。忙しいのに……。では社長お願いします」
 西浦さんは私に謝ると社長に話の続きを促した――。

 それから社長は今回の経緯について詳しく教えてくれた。まず西浦さんの引き抜きは誤報だということ。そしてその誤報は意図的に行われたということ。意図的……。つまり記者は西浦さんに泳がされていたと言うことらしい。
「今から話すことはオフレコでお願いね。役員の中でも数人しか知らない話だからね。社長と私……。専務と総務部長……。あとは広瀬くんしか知らないわ」
 西浦さんは人差し指を立てながら言うと「だから内密にね」と付け加えた。メンツから察するに社長の子飼いと身内しかこの案件には携わっていないようだ。
「それでね。実はニンヒアとクロノスが業務提携することになりそうなのよ。……正確にはニンヒアがクロノスの親会社になるって感じかな」
 西浦さんはそこまで言うと社長の方を向いた。そして社長はバトンタッチされたように続ける。
「うむ。そうなんだ。まぁこの件に関して特に後ろ暗いことはないんだけどね。ただ、今のところは秘密裏に話を詰めてるんだよ。正規の手続きを踏むとはいえ吸収合併に見えるだろうからね」
「吸収合併ではないんですか?」
「……形式的には吸収合併だと……思う。でも基本的にニンヒアとクロノスはこれからも棲み分ける予定だよ。汚い言い方をすればクロノスサイドに恩を売っておきたいというのもあるけどね。ま、二〇年前にクロノスには煮え湯飲まされたこともあるんだけどさ」
 社長はそう言うと苦笑した。煮え湯を飲まされた……。いったい何のことだろう?
「フフフ、そうでしたね。『アフロディーテ』の件は本当にそう。……まぁ、あれに関しては私にも非があるのであまり偉そうなことは言えないですが」
 西浦さんは懐かしそうな、それでいて悲しそうな顔でそう呟いた。私の記憶が正しければ『アフロディーテ』はかなり前にニンヒアに在籍していたアーティスト……。だったはずだ。まぁ、『アフロディーテ』に関してはそんなことよりも京極さんとの因縁の方が私にとっては身近な問題なのだけれど。
「そうだね。アレは本当にキツかった。ニンヒア創業以来最大の危機だったかもね。……ああ、すまないね春川さん。話が脱線したよ。まぁとにかくだ! 今回の業務提携はニンヒアにとってとても大切なものなんだ。だからどうしても成功させたいと僕は考えているよ」
 社長はそこまで話すと立ち上がってキャビネットから今回の業務提携の概要書類を持ってきて私に差し出した。概要は完全にニンヒアが有利な吸収合併……。少なくと私にはそう感じられる内容だ。
「よくこれで先方納得しましたね……」
 資料に一通り目を通すと私は率直な疑問を口にした。言い方は悪いけれどこの提携内容では手枷足枷付けられた囚人と変わらないと思う。
「まぁ……。そうだね。そう思うのも無理はないと思う。でもね。これでもウチはかなり譲歩したんだよ。まぁ流石に金額面は見せられないけど、こちらとしてはかなりクロノスにてこ入れしたからね」
 社長はそう言うと深いため息を吐いた。どうやら私の……。私たち社員の知らない間に弊社はかなり危うい博打を打っていたらしい――。

 そんな話をしていると私のスマホに京極さんから着信が入った。
「あの……。電話いいですか?」
 私は恐る恐る二人に尋ねた。
「ええ、もちろん。早く出てあげなさい」
「ありがとうございます。では」
 私はそう言って経営陣二人に頭を下げた。そしてすぐに社長室前の廊下に移動して電話を取る。
「もしもし?」
『陽子さん忙しいとこごめんね! 急用なんだ!』
 電話口から京極さんの焦った声が聞こえてきた。普段から慌ただしい彼女からしてもただ事ではないことが伝わる。
「何? どうしたの?」
『遠藤さんが! 遠藤さんが大けがしたみたいなんだ!』
「えっ!?」
『さっき鍵山さんとこのお手伝いさんから電話来てさ。今甲府市内の病院みたい。意識戻らないって……』
「……そう、分かった! すぐ行くから待ってて」
 私はそう言ってすぐに電話を切った――。

 それから私は経営陣二人に遠藤さんの件を伝えてすぐに京極さんの元へ向かった。話の途中だけれど仕方ない。正直、私にとっては会社の統廃合よりも目の前の仲間の一大事の方が大切なのだ。
「ごめん。遅くなった!」
 私はクリエイター発掘部のドアを勢いよく開けると中にそう声を掛けた。
「うん。大丈夫! じゃあ行こうか!」
「うん!」
 私たちはそんな短い言葉を交わすとすぐに会社の地下駐車場に向かった。
「高橋さんには帰って貰ったよ。さすがに今日はミーティングどこじゃないからね……。」
 駐車場への道すがら京極さんにそう言われた。
「了解! ごめんね京極さん。あなたにそんな役回りさせて」
「いんや。いいよ別に。それに高橋さんそこまで気ぃ使う相手でもないしね」
 京極さんはそう言って空元気みたいな笑みを浮かべる。
「ま、車乗ったら詳しく話すよ。あとは……。ジュンには残って貰うからね。西浦さんへの報告もしなきゃだし」
「……助かるわ。本当に」
 そんな話をしていると駐車場に到着した。
「んじゃ安全運転で急ぐよ!」
 京極さんはそう言うとロードスターに飛び乗った。まるでアクション映画の主演女優みたいに――。
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