月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 店内に入ると馴染みの店員の横芝さんがカウンターで伝票整理していた。彼女は五〇代前半くらいの女性で私がまだ入社当時からこの店で働いていた。当時には既にベテランっぽかったのでおそらく二〇年くらいはこの店で働いているのではないだろうか?
「いらっしゃぁい」
 横芝さんはまるで近所のおばさんみたいに私たちを出迎えてくれた。彼女は非常に気さくな人なのだ。良くも悪くもこの店の中心的な人間なのだと思う。
「こんばんは。急な予約ですいません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ちょうど予約キャンセルがあったからむしろ助かりました」
 彼女はそう言うと顔に皺を寄せて笑った。営業スマイルではない。これは本当に私たちの来店を喜んでいるような顔だと思う。
 それから横芝さんは私たちを店の奥の個室に案内してくれた。
「七時半から団体さん入ってるんですよ。だからうるさかったらごめんなさいね」
「いえいえ。こちらこそ当日に無理に予約しましたので」
 そんなやりとりをしながら奥の個室に通される。室内には掘りごたつ式のテーブルが置かれ、壁には日本画風の風景画が飾られていた。実にちょうど良い部屋。ありふれた居酒屋のありふれた個室。そんな感じだ。
「とりあえず生ひとつ……。柏木くんは? 何飲む?」
「んじゃ俺は……。うん。俺も生で」
「了解! すいません。じゃあ生二つと軟骨唐揚げお願いします。あとは決まったら追加します」
 私はそんな調子で横芝さんにオーダーを伝えた。ビールと鳥軟骨の唐揚げ。居酒屋の定番メニューだ。
「はいはい……。軟骨と生ふたつですね。あとですね……。実は今日のキャンセル分の料理が余ってるんですが良かったらお出ししますか? もちろんお代はけっこうですので」
「え? いいんですか?」
「はい。春川さんには普段からよく利用してもらってるのでこれくらいはさせてください」
 彼女はそう言うとおばちゃんみたいに左手を前に突き出して振る仕草をした。まぁ実際年相応のおばちゃんなのだけれど。
「ありがとうございます! ではせっかくなのでいただきます」
「はいはい! じゃあそちらも一緒にお持ちしますねぇ」
 彼女はそう言いながらオーダ用紙を前掛けにしまうと立ち上がって「それではごゆっくりお過ごしください」と言った――。

 それから私たちは向かい合って料理が来るのを待った。柏木くんはタブレットPCをバッグから取り出して何やらチェックしている。
「今日はお疲れ様!」
「はい、お疲れ様です」
 柏木くんはタブレットから視線を一瞬上げるとそう返事した。そして再びタブレットに視線を落とす。
「今度は鍵山さんにも会わせるからね。何なら京極さんが山梨行くとき同行してもらってもいいし」
「はい……。そうっすね」
 今度は視線を上げずにそう答える。
「とにかく相手はボカロPさんだからね。ちょっとでも勉強しとかないとね……。私なんかぜんぜん畑違いだしさ」
「まぁ陽子ちゃんはそうだろうね。だってボカロの曲とかあんま知んないんでしょ?」
 柏木くんはそこまで話すとタブレットにカバーを付けて横の座布団に投げた。
「そうだね。正直あんまり……。ってか全く分からないかな」
「うーん……。そりゃちょっと難儀だねぇ」
「難儀って?」
「いんや。大したことじゃないんだけどさ……。ボカロPってだいたい個性の塊だからね。なんつーか自分の価値観曲げない人が多いんだよね。それでいて物腰は柔らかって感じ……。だから下手に接するとやっかいなんだよねぇー。ま、これは俺個人の感想だけどさ」
 柏木くんはそこまで言うと胸ポケットからたばこを取り出した。そして口にくわえて火を付けることなく唇でたばこを上下に揺らした。
「……大丈夫よ。ここ喫煙可だから」
「うん。陽子ちゃんはタバコ大丈夫な人?」
「あんまり好きじゃないけど平気だよ。でも直接私に吹きかけないでね」
 私がそう言いきると同時に彼はタバコに火を付けた。匂いから察するにこれはメビウス系だと思う。
「とにかく。ボカロPへの接し方は注意した方がいいよ。特に『インビジブルムーン』は良くも悪くも癖が強いサークルだからね」
「ずいぶん詳しいのね」
「ああ、そりゃあね。だって……」
 彼はそう言いかけるとタバコの煙を天井に向かって吐き出した。
「だって?」
「だって俺も同じ穴の狢だもん。ほら」
 柏木くんはそう言うと胸ポケットから名刺を取り出して私に差し出した。名刺には『同人音楽サークル スターブレイク ボカロP ほしのかしわ』と書かれていた――。

 それから私は柏木くんから受け取った名刺をまじまじと眺めた。これはいったい誰の名刺だろう? 状況的に柏木くんの名刺だろうか? だとしたら彼はボカロPということになる……。そんな考えが頭を駆け巡った。
「これは柏木くんの?」
 私は疑問をそのまま彼に尋ねた。我ながら思考停止した質問だと思う。
「そだよー」
「ボカロPやってたんだね……」
「まぁね。でもまぁ、アレよ。『インビジブルムーン』と比べたら天と地。月とすっぽんみたいなもん。あ! もちろんウチがスッポンね」
 柏木くんはそう言うと自分で言ったことにウケたように「フッ」と笑った。あまり面白くない冗談だ。
「てことは昔から鍵山さんたちのこと知ってたの?」
「うーん。知ってたと言えば知ってたし、知らなかったと言えば知らなかったかな? だって『インビジブルムーン』ってボカロPとしては有名だったからね。とはいえ……。直接面識はなかったかな? 何回かネット上で絡んだことはあるけどお互いに顔知らなかったしね」
 ネット上で知り合い以上友達未満……。きっとそんな感じなのだろうか? 正直ネットに疎い私からしたらよく分からない関係性だ。
「ふーん……」
「あ! 聞いといてその反応はなくない!?」
「ごめんごめん。最近周りで色んなことありすぎて驚くのにも飽きてたんだ。別に柏木くんの経歴にケチ付けたわけじゃないから気にしないで」
 私はそんな弁明にもならないような言い訳した。本当に最近は驚くのにも流石に飽きた気がする。
 そうこうしていると個室の襖越しに「失礼します」という声が聞こえた。そしてゆっくりと襖がスライドしていく。
「お料理お持ちしました」
 横芝さんはそう言うとお盆に乗せた料理とビールを私たちの前に並べてくれた。注文した生ビールと軟骨唐揚げと突き出しの小鉢。そして刺身の盛り合わせと和牛の和風ステーキと春巻き。そんな宴会的なメニューがテーブルに並ぶ。
「え? こんなにいいんですか?」
「はい! もう予約キャンセルのお客様が注文した料理ですので。あとは……。デザートにマンゴープリンもありますので最後におっしゃってくださいね」
 横芝さんはそう言ってニッコリ笑った。その笑顔はまるで恵比寿様のようだ――。

「ずいぶん豪華だね」
 横芝さんが行ってしまうと柏木くんが料理を眺めながら感心したように言った。
「本当にね。いや……。マジで」
「さすが陽子ちゃんだよ。やっぱり持つべきものはコネクションだねぇ」
 柏木くんの言葉に私は思わず苦笑いした。確かにコネを持つのは大事だけれど、行きつけの居酒屋の店員さんとの関係をコネクションと言って良いものなのだろうか?
「で? 話の続き。柏木くんはけっこう長いことボカロPしてるってことでOK?」
 乾杯を終えると私は再び彼に話を振った。柏木くんは料理をつまみながら「うん、まぁ。そうね。かれこれ一〇年はやってるから間違ってはいないよ。来歴だけなら『インビジブルムーン』よりちょい先輩だしね。ま、俺がやってることなんて音源をサイトにアップしたり、それ系のイベントで配布してるだけだけどね」と言った。
「ふーん。ボカロってイベントとかもやってるのね」
「おいおい、陽子ちゃん。一応ボカロP相手にしてるんだからそれぐらいは勉強しとかなきゃだめでしょ? ……うんとね。ちょっとこれ見て」
 柏木くんは皮肉っぽく言うとさっきまで触っていたタブレットを拾ってブラウザで何やら検索し始めた。そして検索が終わると私にタブレットを差し出す。
「これは?」
 私はタブレットを受け取ると画面を確認した。そこには『ボーカロイド系即売会一覧』と表示されている。
「それがボカロのリアルイベントの一覧だよ。俺が出たのはその中で上の三つくらいかな? けっこう盛り上がってるんだ」
「そうなんだ。知らなかったよ」
 私は軽く相づちを打つとタブレットを操作してイベントの概要をチェックしてみた。どうやら大きなイベントは数百サークルが一堂に会するらしい。柏木くんの言うとおり割と大きなイベントのようだ。
 それから柏木くんは事細かに私の疑問に答えてくれた。ボカロPがどうやって曲作りしているかだとか、どこの投稿サイトが人気だとか、イベントに参加するサークルはどんなだとか……。そんなサブカルな情報。
「――ま、そんな感じよ。けっこう奥深いでしょ?」
「そうね。思ってたよりずっと」
「うん。そうなんだよー。いや、本当に。だからやり込むと色んなことしたくなるんだよねぇ」
 そう話す柏木くんの顔は少し誇らしげに見えた。おそらく私が企画部にいた頃と同じような気持ちなのだと思う。自分のやるべきことを自分が望む居場所でやれる。それは非常に幸せなことなのだから。
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