月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 ピアノ椅子に座るなり惣介は演奏を始めた。曲はベートーベンのピアノソナタ第一四番。通称『月光』と呼ばれる三つの楽章に分かれる曲だ。私にはにわか知識しかないけれどたしか『月光』は割と難しい曲だったと思う。
 そんな難しい曲なのに惣介はピアノをまるで飼い猫でも撫でるように簡単に弾いていった。第一楽章の陰鬱なメロディが横浜駅に響き渡り、そこにいる観客たちを一気に飲み込んでいった。これから満月の浮かぶ水面で入水自殺する女性……。曲を聴いているとそんな不吉な映像が頭に思い浮かんだ。不吉で、不吉で不吉で仕方ないのに最高に美しいメロディだと思う。
 でも……。美しいとは思いつつもアラベスクのような穏やか曲からの落差に目眩がした。作曲者の違いもあるのだろう。考えてみればドビュッシーとベートーベンではあまりにもタイプが違い過ぎるのだ。
 これはあくまで私の感想だけれど、ドビュッシーは穏やかで神秘的な曲を、ベートーベンは激情のように激しく悲痛な曲を書いている作曲家だと思う。陰と陽。男と女。生と死。エロスとタナトス……。それくらい真逆なのではないだろうか?
 そんな不吉な第一楽章が終わると曲は『月光』の中でも比較的明るい第二楽章に突入した。相変わらずベートーベンらしい力強さは感じられたけれど第一楽章よりは幾分穏やかになったと思う。
 第二楽章が始まったあたりで私は後ろに集まっている観客に目を遣った。増えに増えた観客はだいた三〇人くらい。なかなかの人数だと思う。これだけ集まればちょっとした音楽ホールでの演奏会ぐらいは開けそうだ。
 惣介はそんな観客などまるで見えていないかのように第二楽章を弾き進めていった。明るい第二楽章のはずなのにそこには確実な『死』の匂いがこびり付いていた。『死』へのモラトリアムみたいに。これから訪れる『死』のための準備みたいに。
 そうこうしていると第二楽章は終わり遂に『月光』は第三楽章に突入した。そして惣介のピアノを弾く指が今までに無いほど激しく流れていく。
 正直に言おう。私は第三楽章の彼の演奏を聴いてすっかり惚れ込んでしまった。弾く姿、彼の表情、額に浮かぶ汗。その全てが最高にカッコ良かった。この人が良い。この人と恋人になりたい。私は生まれて初めて本当に恋に落ちた気がした。堕ちる、堕ちる、堕ちる、堕ちる。完全に堕ちてしまった。我ながらチョロい女だと思う。
 私のそんな恋心をかき消すように惣介は第三楽章を弾き殴っていった。激しく、そして繊細に。その陰と陽を織り交ぜた打鍵は『死』を非常に軽くしているように感じた。最初は戸惑っていた自殺者が最期には全て悟りきってしまったような。どうしようなく愚かで。どうしようもなく美しい。彼の演奏にはそんな響きがあった。
 そして……。惣介は最期のパートを完全燃焼しながら弾ききって見せた。『死』の恐怖と『生』への執着。それに打ち勝ったみたいに――。

 惣介の演奏が終わると観客たちから盛大な拍手が送られた。駅構内という場違いな場所に破裂音のような場違いな音がこだまする。
「あ、どうもどうも」
 惣介はピアノ椅子から立ち上がると彼らに申し訳なさそうに会釈した。これにて浦井惣介ピアノリサイタル終了だ。
「ま、アレだよ春川。ちょいちょい練習するといいよ。お前は俺より地頭良いんだからきっと弾けるようになるさ」
 惣介はそう言うと照れたように笑った――。
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