月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 山下公園を出ると私たちは横浜駅に向かった。みなとみらい線に揺られている最中も惣介は気持ち悪い笑みを浮かべている。
「楽器屋でも行くの?」
 私は思いきり不服そうな声を作って惣介に尋ねた。
「いんや、楽器屋より面白い場所」
「何よそれ?」
「ま、いいからいいから」
 惣介はそれだけ言うと「ふふぅー」と鼻を鳴らした。最高に腹が立つ。
 みなとみらい線の車内は観光地特有の客層だった。家族連れやらカップルが多い。思えば今日のデートコースで見かけたのもそんな人たちだった気がする。みなとみらい地区はそういう場所なのだ。都会のオアシス。日本屈指のリア充スポット。俗っぽい言い方をすればそうなるのだろう。
 そうこうしていると電車は横浜駅に到着した。乗っていた乗客全員が一気に席を立つ。
「さて、じゃあ行くか」
 惣介はそう言うと私の手を握った。そしてあまりに自然に握られたので思わず「うん」と答えてしまった。初めての手つなぎのタイミングとしては明らかにおかしいと思う。でも……。嫌じゃなかった。
 惣介の手の硬さが私の子供みたいな手に伝わる。男の人の手だ。手のひらの硬さと大きさ。包容力のある力強さ。あまり意識してこなかったけれど彼もれっきとした男子なのだ。
 そう意識した瞬間、私の身体は自分では制御できないくらい熱くなった。もしここに鏡があったなら私の顔は赤いにやけ顔をしていると思う。残念ながら今はそれを確認する術がないけれど。
 それから惣介は私の手を引いて横浜駅構内を進んでいった。人の波に揉まれて私がはぐれないように強く握られた手はまるで少し年の離れた兄のように思えた。自分勝手でマイペースだけれどいざとなれば私をいつも助けてくれる。そんな兄のように。
「お、あったあった」
 五分ほど歩くと惣介がそう言って立ち止まった。そして何事もなかったように私の手を離す。
『到着したからもう引率は終わりだよお疲れ様でした』
 離された手にそう言われた気がした。残った手の余韻も少しずつ消えていく。もう少し繋いでいてもよかったな……。そんな残念な思いだけが残響のように私の中に残った。
「ほら、アレだよアレ!」
 惣介は私のそんな思いとは裏腹に目的のモノを指差した。
「ピアノ?」
「そうそう! いや、近場にあって良かったよ。本当はグランドピアノが良いけど横浜近郊だとコレしかなかったんだ」
 惣介はやや残念そうに言うと肩を竦める。
 そこにあったのはアップライト式で光沢のあるマホガニー製のピアノだった。色味はギブソンSGのボディのカラーに似ている気がする。
「んじゃ。とりあえずお手本見せてやるよ。なんかリクエストあるか?」
 惣介は当たり前のように言うとピアノの前に座った。そして流れるように鍵盤の蓋をスッと上げた。
「え? んー。じゃあ……」
 急にリクエストを聞かれて私は少し迷った。正直、ピアノでリクエストできる曲のレパートリーはあまり持ち合わせてはいないのだ。
「なんでもいいぞー。ポップスでもいいし、定番にクラシックでも。ま、ポップスは知らなかったらできねーけど」
「うん。じゃあね……。とりあえずドビュッシーのアラベスク」
「あいよ。んじゃ第一番からなぁ」
 惣介はそう言うとアラベスクの第一番の演奏を始めた。
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