月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 鍵山さんは演奏を終えると「ふぅ」と声にならないくらい小さなため息を吐いた。そして私たちの方に視線を向けた。どういうわけか彼女の視線は確実に私たちを捉えている。
「すげぇー! 鍵山さんめちゃくちゃピアノ上手いじゃん!」
 京極さんはそんな風にとても失礼な褒め方をすると大げさに拍手した。プロのピアニストに演奏が上手いと褒めるのはどうかと思う。でも鍵山さんそんな京極さんの物言いにも「ありがとうございます」と嬉しそうに答えてくれた。素直過ぎるだろ。思わずそうツッコみそうになる。
「別れの曲は私が最初に弾けた曲なんです。だからリクエストして貰えてすごく嬉しいですね」
「へー! そうだったんだ! やべぇじゃん。鍵山さん小さい頃からピアノやってきたの?」
「ええ、母が毎日弾いていたので物心つく前からピアノ漬けだったんです」
「やっべ! サラブレッドじゃん。世の中には天才っているんだねぇ」
 京極さんは痛く感動したのか矢継ぎ早に鍵山さんに色んなことを聞いては「やべぇ」を連呼した。相変わらず育ちが悪いようだ。(私も人のことは言えないけれど)
「ちょっと京極さん……」
 私はそう言って京極さんの肩を小突いた。いくら何でもビジネスパートナーに対して失礼すぎる。
「んだよ。いーじゃんよー。ほら、ウチら同じ『月』の名前が入った者同士だからめっちゃシンパシー湧くんだよね。しかも音楽って繋がりもあるしさ」
「そりゃそうかもしれないけど……。とりあえず少しお口チャックしなさい」
「……はーい」
 京極さんはわざとらしくふてくれさたような返事をした。やれやれ。この子は本当に自由人過ぎる――。

 それから鍵山さんは私たち全員のリクエストを聞いてくれた。半井さんはショパンのノクターンを。ジュンくんはリストのラ・カンパネラを。京極さんは「ノーリツの給湯器でお湯が沸いたときの曲」とやらをそれぞれリクエストした。ちなみに「ノーリツの給湯器でお湯が沸いたときの曲」はエステンという作曲家の人形と夢の目覚めという曲らしい。まぁ、これは鍵山さんからの受け売りなのだけれど。
「えーと……。次は最後ですね。春川さんは何にしますか?」
 鍵山さんは「ノーリツの給湯器でお湯が沸いたときの曲」の演奏が終わると私にリクエストを聞いてくれた。
「そうですね……。じゃあベートーベンの月光をお願いします」
「分かりました! 月光……。いいですね。大好きな曲です」
 鍵山さんはそう言うと鍵盤に指を沈め月光の第一楽章の演奏を始めた――。
 
 思えばこの曲を初めて生で聴いたのは惣介との初デートの日だった。付き合うとか付き合わないとか考える前の……。それこそまだ「浦井くん」と惣介のことを呼んでいた頃だったはずだ。
 たしかあれは知り合って三ヶ月目の六月だったと思う。場所は横浜……。そこまで思い出すと急に当時のことが目の前に浮かんだ。まだ若かった。いや、まだ幼かった頃の私たちの姿が。 
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