月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 扉が開くと古い木と珈琲の香りが鼻を突いた。そして正面からはゴポゴポとお湯が沸騰したような音が聞こえた。聞いたことのある音だ。おそらく珈琲サイフォンの音だと思う。
 私がそんな風に店内の空気を感じていると女性の店員さんに「いらっしゃいませ」と声を掛けられた。それに対して兄は「あの……。待ち合わせなんですが……」と返す。
「はいはい、もしかして……」
 店員さんがそう言い掛けると同時に奥の席から誰かが小走りでやってきた。そして「あの……。冬木さん……ですか?」と兄に訊いた。声の感じから察するにまだ若い……。いや幼そうだ。
「はい……。もしかして半井先生……ですか?」
 兄は彼女の方に向き直ると恐る恐るそう尋ねた。
「はい! 半井です! 冬木先生、お会いできて嬉しいです!」
 彼女は上ずった声で言うと私と兄の顔を交互に見比べた。ぼやけて見える彼女の顔は心なしか赤くなっているように見える。
「いやぁ、こんなに若い人だとは思わなかったです……。あ、ほら御苑。こちら半井先生だよ」
 兄は照れたように言うと私にも挨拶するように促した。私は兄に促されるまま「初めまして半井さん。紫苑です」と面白みのない自己紹介をした。我ながら語彙力が足りないと思う。
 私が挨拶すると半井先生は混乱したように「えーと……」と私たちの顔を再び見比べた。おそらく彼女はどちらが『冬木紫苑』なのか分からないのだろう。まぁ、どちらもなのだけれど……。
 それから私たちは奥の席に案内された。席に着くと彼女は「では……。あらためまして。初めまして! 半井のべるです。いつも文くらではお世話になってます」と丁寧に挨拶し直してしてくれた。その口調に中学生らしさが見え隠れする。
 案内された席の横には明かり取り用の窓があった。そこから差し込む日の光が肌で感じるくらいには明るい。良い陽気だ。会いたかった人に会うには最高の天気だと思う。
「あの、それでお二人は……」
 半井先生は遠慮がちに私たちにそう尋ねた。そこには『どちらが冬木紫苑なの?』というニュアンスが含まれているように感じる。
「ご丁寧ありがとうございます。えーと……。なんて名乗ったらいいのかな?」
 兄もその空気を感じ取ったのか私に話を振った。どうやら兄は私に説明させたいらしい――。

 それから私は自分たちのことを出来うるかがり簡潔に説明した。私の目のこと、執筆担当が私で校正・校閲が兄の担当であること、世間にはあまり私たちの素性を明かしていないこと……。それらを詰まり詰まりながら半井先生に話した。
 改めて話してみると『冬木紫苑』という作家の人生がまるで他人事のように感じる。私が書いた作品に読者がいる。しかも結構な人数。それが嘘のように思えた。目の前にいるこの人さえ私の読者なのだ。それを考えると妙に気恥ずかしくなる。
 私のそんな思いとは裏腹に半井先生は穏やかな相づちを打ちながら私の話を聞いてくれた。相づちの一つ一つに彼女の育ちの良さがうかがえる。
 一通り話し終えると兄が「なので御苑が……。妹が冬木紫苑なんですよ。僕はこの子が書いた作品を校正したり、ネットに上げたりしているだけなんで」と申し訳なさそうに付け加えた。謙遜するみたいに。いや……。この場合は卑下と言った方が妥当かも知れない。
「ずっと冬木先生って男の人だとばかり思ってたのでビックリです」
 話が終わると半井先生にそんなことを言われた。まぁ……。読者からはそう思われていることが多いので慣れっこだけれど。

 初顔合わせはそんな感じで和やかに終わった。そしてこれが兄が半井先生と会った最後の日だった――。
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