月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 半井先生からの連絡があってから一週間後。私たちは渋谷から田園都市線に乗って二子玉川に向かっていた。目的地は『喫茶 木菟』。そこが半井先生との待ち合わせ場所だ。
 私は久しぶりの電車移動に少し緊張していた。渋谷の人混みに揉まれ、地下への階段を降りる。こうして地下鉄に乗るのなんて何年ぶりだろう?
「足下気を付けて!」
 私が階段に足を掛けると兄が心配そうに言った。
「うん。ゆっくり降りるよ」
「そうそう。怪我したら大変だからね」
 そんな会話をしている横を女子学生が笑いながら通り過ぎていく。声の感じから察するに高校生ぐらいだと思う。彼女たちの会話から察するにこれから三軒茶屋まで行くらしい。三軒茶屋……。私にはあまり縁の無い駅だ。
 兄に介助されながら階段を降りると地上とは違った匂いが鼻を突いた。正直あまり良い匂いではない。うまく説明できないけれど空気自体がねっとりしているように感じる。
「みんなすごいよね。もし目が見えてもあんまり地下鉄乗りたくないや」
「だねー。僕もあんまり好きじゃないかな」
「でもお兄ちゃんいつも地下鉄乗ってるんでしょ?」
「まぁね。ま、慣れだよ、慣れ! 最初は気持ち悪くてもなんだかんだ慣れちゃうんだ」
 兄はまるで苦痛を受けることを受け入れたように言うと「ふぅ」と小さなため息を吐いた――。

 半井先生からの連絡は文藝くらぶ内のメッセージ機能で送られてきた。かなり丁寧に。そして正直なメールだったと思う。

 冬木紫苑様

 いつもお世話になっております。
 先日は私の作品に感想を書いていただきありがとうございました。
 実を言うと先日まで少し自信を失いかけていたので冬木先生に優しい言葉を掛けていただいてとても嬉しかったです。
 ――ご存じかも知れませんが私は週に四回、文藝くらぶへの投稿を行っています。本当は毎日投稿したいのですが学校もあるのでなかなかそこまでは手が回らないというのが現状です。
 しかも来年は高校受験があります。なので来年はもっと投稿頻度が落ちてしまうかも知れません。あらためて考えると作家と学業の両立って難しいものですね。まぁ、私より他の作家さんたちの方がずっと多忙なのだとは思うのですが……。

 さて、話はだいぶ逸れましたが今回は冬木先生にお願いがあり、ご連絡差し上げました。
 単刀直入で申し訳ないのですが、実は冬木先生と昼食をご一緒したいのです。
 こういう書き方をするとナンパみたいですが、一度会ってお話したいです。
 どうかよろしくお願いします。
 もし可能であれば日時と場所を考えますのでご連絡ください。
 では文藝くらぶ内でもまた会いましょう。

 半井のべる

 ――という内容のメールだ。端々に文面を考えあぐねいた痕跡が見え隠れする。おそらく彼女も苦悶しながらメールを打ったのだと思う。
 そう考えると彼女が急に身近な人のように思えた。『ああ、半井先生も普通の女子中学生なんだな』と。そんな風に。
 当たり前だけれど作家だって普通の人間なのだ。ごく一部の超天才だとか鬼才を除けば『よっぽどの人』はいないと思う。
 まぁ……。その『よっぽどの人』になりたくてみんな作家を志すわけなのだけれど――。
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