月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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「ふぅー」
 兄はため息を吐くとキーボードを叩くのをやめた。
「お疲れ様。お兄ちゃん、今日はずいぶんと長いことやってたね」
「ああ、そうだね。いや……。もうすぐ締め切りだからさ」
 兄はそう言って立ち上がると、身体を思い切り伸ばした。ぼやけた視界に映る兄の姿がチーズみたいに縦に伸びる。
「今日は怪奇譚の更新どうする? スケジュール詰まってるならお休みのお詫びツイート考えるけど?」
「いや、大丈夫だよ。更新しよう。……ってかそっちが本丸だからね」
 兄はそう言うとテーブルの上のコーヒーメーカーに手を伸ばした。
「御苑も飲む?」
「うん!」
 それから兄はドリップコーヒーをいれてくれた。指先に触れるカップが温かい。どうやらカップ自体を湯煎したようだ。
「お母さんは? 今日も夜勤だっけ?」
「ああ、みたいだね。さっき今日は泊まりだって連絡あったよ」
 兄はそう言いながらコーヒーに冷ますようにカップに息を吹きかけた。
「そっかぁ。最近夜勤多いねぇ」
「なんか担当の患者さんの加減が良くないらしいよ。まぁ、母さんの病棟はそういう場所だから仕方ないけどさ」
 兄はそう言うと肩を竦めた。そして「あんまり無理すると母さんが患者になっちゃうよね」と付け加えた。まぁ母の職業を考えると多少は致し方ない気もするのだけれど。
 私たちの母は総合病院の看護師をしていた。一応の役職は看護師長らしい。母の話だと院内での母のポジションは下手な内科医よりずっと上だとか。(これに関しては眉唾かも知れないけれど)
 そんな多忙な母だからか。幼少期の私を育ててくれたのは主に兄だった。昔から兄は家事全般熟していたし、何なら母よりずっと父のお世話をしていた気がする。
 そんな状態でも兄はそれに関して不満を漏らすことはただの一度もなかった。きっとそれは私の目が見えなくなってしまったからだと思う。
 今思い返すと……。失明した当時は自分のことを酷く呪ったものだ。なんで私なの? 私が何か悪いことした? 神様なんかいやしない。そんな風に思った。
 大好きな本がもう読めない。歩くことだってままならない。友達とも普通に遊べない。一生このままなら死んだ方がマシだ……。当時はそんなことを兄に向かって泣きながら叫き散らした。今思うと酷く情けない話だけれど。
 だから思う。普段は普通に接しているけれど兄は私の大恩人なのだと。兄がいなければ私はとっくの昔に死を選んでいたのだから――。
 
 コーヒーを飲み終えると兄は『異世界奇譚』の校正に取りかかった。文章の外科手術。兄と私にとって最も大切なライフワークだ。
 まず私が打ち込んだ誤字脱字だらけの原稿をコピー用紙に印刷する。誤字脱字だらけ……。分かってはいるけれど言葉にすると居たたまれなくなる。おそらく他の作家は私みたいに誤字だらけではないのだ。まぁ、視力のことがあるので致し方ないのだけれど。
 兄はそんな私の思いを知ってか知らずか淡々と文章を校正していった。時々「ここの『早い』は速度の『速い』だね」とか「ツルギの『剣』がクダンの『件』になってるから直すね」とか言うだけで私を責めたり嫌味を言ったりはしなかった。月並みな言い方だけれど兄は非常に大らかなのだ。少なくとも私に対してはとても寛大だったと思う。
 誤字脱字の修正が終わると兄はそれを再びパソコンに打ち込んでから印刷し直した。そして私と向き合ってから言い回しの修正や表記のブレを直す作業に移った。兄の朗読を聞きながらの修正。私はこの時間が気に入っている。
 兄の声はナレーター向きの優しい声だった。だから自分で書いておきながら私は『異世界奇譚』の世界に自然と引き込まれていった。妖精が飛び回る様とドラゴンと対峙する主人公の表情が瞼の裏に浮かぶ。
 手前味噌だけれど兄には朗読の才能があるのだ。それだけで仕事にできるかも知れない。身内の欲目とはいえそう思う。
 朗読と文章の修正を繰り返す。次第に物語が型にはまっていく。それは私にとって最高の贈り物だった。人に読んで貰う為の作品ではあるけれど、その前に私自身が最初の読者になれたことがとても誇らしく思える。
 思えば最初はこんなに上手くはできなかった気がする。私の文章は拙かったし、兄の朗読と校正校閲も勝手が掴めていなかったように思う。だからこれは兄妹で共に育てた感性なのだ。一緒に作り上げてきた芸術作品……。大げさに聞こえるかも知れないけれど本気でそう思う。
「よし……。じゃあこれでアップしようか」
 一通り校正校閲が終わると兄がそう言って立ち上がった。そしてネット上に作品を公開した。
「お疲れ様。今日も楽しかったよ」
「ああ、そうだね。僕も楽しかった」
 兄はそう言うと「ふぅー」と再びため息を吐いた。本日のお仕事終わり。それを告げるように――。
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