月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 仕事が終わったのは二一時過ぎだった。また京介の晩ご飯が冷めてしまった。そこに罪悪感を覚える。
「お疲れ様」
 私の仕事の手が止まると西浦さんに肩をポンと叩かれた。
「お疲れ様です」
「……とりあえず明日からは企画部関連の仕事は全部断りなさい」
「え! でも……」
「大丈夫よ。私が何とかするわ。……ちょうどこれから高野くんと話すから」
 そう言うと西浦さんは左手の時計に目を遣った。
「さぁ、帰った帰った! お風呂入ってゆっくりしない」
「は……。はい」
 本当に大丈夫なのだろうか? 私は一抹の不安を覚えつつも西浦さんに頭を下げた――。

「おかえりー」
 家に帰るとダイニングテーブルで京介がパソコンをいじっていた。見慣れた風景。私にとっての日常だ。
「ただいまぁ。ごめんね! 今日も遅くなっちゃって」
「いいよいいよ。新部署なんだから仕方ないって」
 京介はそう言いながら眼鏡を外すとそのままキッチンへ向かった。そして流れるように鍋を火に掛ける。
「今日は俺も夕飯まだなんだ」
「もしかして待ってた?」
「いや、たまたまだよ」
 京介は当たり前のように嘘をつくと鍋の中身をかき混ぜた。どうやら今日の夕飯はビーフシチューらしい。
 部屋にビーフシチューの良い匂いが漂う。少しのワインの芳香。そして肉と野菜が煮込まれたときの食欲を誘う香りだ。
「あんまり無理しない方が良いよ? 陽子がいくら丈夫だって限度があるんだからさ」
「まぁね。……昨日と今日は流石に応えたよ」
「だよねー。だって昨日は山梨まで行ったんでしょ?」
「そうね。はぁ、マジで疲れた」
 今更思い返すと壮絶な二日間だった。昨日は新宿から二子玉川まで移動して冬木さんとの打ち合わせ。それから京極さんと甲府へ移動して鍵山さんとの初顔会わせ……。昨日だけでも割とハードだと思う。
 そして日付が変わって今日は丸一日掛かってのデスクワーク。流石の私もオーバーワークだと感じる。
「そういえば……。昨日甲府で見た星空綺麗だったなぁ」
 私は何とはなしに昨日あったことを口にした。満天の星空。草の匂いと虫の声だけの夜。そんな景色がフラッシュバックする。
「ハハハ、じゃあけっこう山奥まで行ったんだ?」
「うん! やばいくらい山ん中だったよ。前に京介と一緒に行った戦場ヶ原と同じくらい!」
「へー。それはいいね。今度は俺も一緒に行こうかなぁ」
 京介はそう言うとコンロの火を消してビーフシチューを皿に盛り付けた。そして皿の縁に付いたシチューを布巾で几帳面に拭き取る。
「そうだねー。今度は京介も一緒に行こう! 毎回京極さんに車出させるわけにも行かないからね……」
 それから私たちは一緒にビーフシチューを食べた。いつものことながら京介の作る料理は美味しい。しかも安い材料を丁寧に下拵えして作ってくれるから家計も助かる。やはり京介は彼氏として最強の優良物件だと思う。
「……戦場ヶ原懐かしいね」
 京介はビーフシチューを口に運びながら思い出したように呟いた。
「だねぇ。あれからもう一〇年だもんね」
「本当に! あの頃は俺たちも若かったよ」
 若かった――。その言葉に納得せざる得ないくらいには私たちは歳を取った気がする。
「ハハハ、マジでそうだね。私ももうおばさんの仲間入りかも……」
 私はそう自虐的に言って苦笑した。事実であるだけに少し悲しくなる。
「まぁ、みんな歳は取るさ。それに……」
「それに?」
「陽子がおばさんなら俺だっておじさんだよ」
 京介はそう言うと私と同じように苦笑いを浮かべた。
 やれやれ。そろそろ私たちも身を固めた方が良いのかもしれない。
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