月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第一章 二つの鍵盤

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「こんな感じだよ」
 海音ちゃんはそう言ってそのソフトを立ち上げた。スピーカーから「あー」という女の子の声が聞こえる。機械的な声。声質だけが人間でイントネーションが機械。そんな感じだ。
「このソフト使うと楽曲が簡単に作れるんだよ」
「そう……。なんか不思議な感じだね」
 私がそう返すと海音ちゃんは「うんうん」と頷いた。そして話を続ける。
「ほらセレネー、前から作曲したがってたからさ。コレ使えば君にも曲作りできるんじゃない?」
 海音ちゃんはそう言うと再びパソコンのキーボードを操作した。どうやら海音ちゃんは今この音声合成ソフトにご執心らしい。
「うーん……。どうかなぁ。正直、そのソフト使える気がしないよ」
 確かにこのソフトがあれば楽曲作りはできるかも知れない。でも……。残念ながら私はパソコンが扱えないのだ。こればかりは練習でどうこうなる話でもないと思う。
「大丈夫だよ。セレネーは作った曲でピアノで演奏したり、歌詞を歌ってくれるだけでいいからさ。そこから先のことは全部僕がやるよ」
 そこで『ああ、そういうことか』とようやく海音ちゃんの考えが理解できた。考えてみれば当然だ。要は分業前提なのだ。私が作詞作曲をして海音ちゃんがそれをソフトに落とし込む。おそらく海音ちゃんはそうしたいのだろう。
「それは……。いいけど。海音ちゃん大変じゃない?」
「いやいや。大丈夫だよ。これでもパソコンには強いんだ。楽譜と歌詞打ち込むぐらいはどうってことないからさ。それよりは作詞作曲のほうが大変だと思う……。だってそれは単なる作業じゃないからね」
 海音ちゃんはそこまで話すと小さくため息を吐いた。そして「もし、それでも良ければ僕はやりたい」と付け加える。
「……いいよ。私もピアノで曲作りするの好きだしね。まぁ、お互い無理がない範囲でやろっか」
 私の口から煮え切らない言葉が零れる。海音ちゃんが飽きるまで付き合えば良いか……。そのときはそんな風に思ったのだ。

 私と海音ちゃんの音楽活動はこうして始まった。……と言っても私のやることは前とさして変わらない。ピアノを弾く。ただただ思い思いに鍵盤を叩く。それだけだ。変化があったとすれば『このメロディかっこいいなぁ』とか『ここにこの歌詞を乗せよう』とか。そういったことを意識的に考えるようになっただけだと思う。
 即興演奏に近いからだろう。私の思い描く楽曲は曲と歌詞がほぼ同時に仕上がっていった。作詞家にも作曲家にも会ったことがないのでこのやり方が正しいかは分からない。でも私にはこのやり方が合っていたのだと思う。感性と指先に伝わる感触だけで良い。それ以上何もいらない。素直にそう思う。
 仮の曲と詞が完成すると海音ちゃんが録音してくれた。弾き語り。私が最も苦手とすることのひとつだ。ピアノ演奏はともかく私の歌声は聴くに堪えない。どうしようもなく音痴。こればかりは本当にどうしようもない。
 でも……。そんな拙い歌でも彼は笑ったりせず、真剣に聴いてくれた。まぁ、その態度がむしろ私を居たたまれない気持ちにしたのだけれど――。
 
 作詞作曲演奏フリースタイル。そんな水泳競技名のような作業を終えると私は自室に戻った。
「うん。じゃあここからは僕の番だね」
 私が自室の椅子に座ると海音ちゃんの声とパソコンの起動音が聞こえた。どうやらここで入力作業をするらしい。
「ちょっと作業するから好きにしてて良いよ。出来上がったら聴かせるからね」
「うん」
 カタカタカタカタ。そんなタイピング音が部屋にこだまする。リズミカルで良い音だ。海音ちゃんの性格を表すように真っ直ぐで穏やかな音だと思う。私はしばらく椅子に座ったままその音に耳を傾けた。心地良い。こんなに美しいキーボード音を出せる人は他には居ない。大げさだけれどそう思う。
 ピアノの鍵盤から作業を引き継いだキーボードは元気に音楽を積み上げていった。鍵盤から鍵盤へ。リレーのように音が運ばれていく。私が作った荒削りな曲と下手くそな歌がきちんと製品として仕上がっていく。それはまるで採掘した岩から宝石を取り出す作業のようだ。
 二人の時間。二人の音楽。二つの鍵盤……。それはまるで奇跡みたいに磨かれていった――。

 私は緑髪ツインテールの少女の姿を思い浮かべた。緑……。それはいったいどんな色なのだろう? きっと穏やかで柔らかい色なんだろうな。勝手にそう思った。緑は草木や信号機の進めの色。その程度の知識しかないけれど。
 海音ちゃんのタイピング音は時折止まりながらも確実に曲を紡いでいった。ヘッドホンをしているのか、楽曲自体は聞こえてこない。ひたすらにカチカチという音がこだまするだけだ。
 私はタイピング音を聴きながら枕元に置いてある月の模型を手に取った。そして指先で「賢者の海」を探った。たしか月の裏側……。ボツボツしている側にそれは合ったはずだ。
 指先に伝わるクレーターの感触で月の地形を探る。月面探索車のように丁寧に地表を指でなぞっていく。ここは「晴れの海」でここは「雨の海」。こうやって地形を探すのは楽しい。指先でする月面旅行。きっと健常者には理解出来ない娯楽だと思う。
 私にとって月は最も近くて最も遠い存在なのだ。自身の名前に含まれていながら一生見ることも感じることも出来ない。そんな存在……。数多の星々のように何光年も離れているわけではないのに――。
 
「よし……。仮だけどできたよ」
 タイピング音が止まると同時に海音ちゃんが独り言のように呟いた。作業時間は三時間ぐらいだろうか? 肌で感じられる空気の温度が少し冷たくなったような気がする。夜の温度。それが近づいている。
「もう夕方?」
「そうだね」
「外はどんな感じ? 空は何色?」
「外は……。夕焼けが見えるね。色は西の空がオレンジと紫が混ざってる感じ」
 海音ちゃんは私のどうしようもない質問にも丁寧に答えてくれた。誰かが居てくれるときは色について聞いておきたいのだ。見ることが叶わなくても知ってはおきたい。素直にそう思う。
「じゃあ曲流すよ。気に入ってくれると良いんだけど……」
 海音ちゃんはそう言って出来たてほやほやの曲を再生した――。
 
 スピーカーからピアノの音が流れる。今にも消えてしまいそうなほど弱い音だ。打鍵で鳴らす音とはまるで違う。おそらくパソコン用のスピーカーの性能が悪いのだろう。
 でも……。聞こえてきたのは間違いなく私がさっき作った曲だった。音質と若干の音程の違いはあるけれど概ね合っていると思う。
 電気的に作られたピアノの音と人間になりきれない電脳歌姫の声が部屋に響き渡る。私の耳に届くそれはまるで未来世界の雑踏のようだった。車が空を飛び、宇宙服みたいな洋服に身を包む。そんなステレオタイプの未来の音……。そんな感覚が全身に纏わり付く。
 
『これでは足りない。何かが欠けている』
 
 私は全身で音を浴びながらそんなことを思った。全然足りないのだ。これは私が作りたい音楽なんかじゃない。音楽もどき……。私の中の何かがそう訴えかけてくる。
 こんな感覚は初めてだ。明らかに何かが抜け落ちている。でもそれが何なのかは分からない。そんな気持ち悪さなのだ。まるでトウモロコシの入っていないコーンスープを飲んだときみたいな。前提が間違っているような気持ち悪さ……。だと思う。
「どうかな?」
 曲が終わると海音ちゃんが優しい声で聞いてきた。
「……うーん。ちょっと分からないかな」
 私はそれだけ言うと首を横に振った――。
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